なぜ「語りかけること」が、生きる力を育むのか【朗読付き】
仏教徒ではなくても、眠る前に仏教に触れて、心を落ち着かせてから眠る。そんな人々を「ナイトスタンド・ブディスト」と呼びますが、近年、このような習慣を持つ人が増えています。浄土真宗本願寺派髙願寺の宮本義宣住職が、モヤモヤを抱えて眠れない夜に、仏さまのお話をお届けします。今回は、僧侶による朗読付きで再掲載します。
【タイトル】眠れない夜に効く、仏さまの話
【第二夜】 生きる力を育む
朗読:藤本真教(茨城県ひたちなか市常教寺住職)
震災で亡くなった親友に、毎週語りかける少女
東日本大震災が起こって1年後の産経新聞朝刊の1面に、親友のゆいちゃんを亡くした小学1年生の羽奈ちゃんの記事が掲載されていました。羽奈ちゃんとゆいちゃんは、海岸から1.5キロ内陸にある同じ幼稚園に通っていました。
その幼稚園を津波が襲い、園児8人、職員1人が、避難するために乗った送迎バスごと流されて亡くなりました。早退していた羽奈ちゃんは、海から遠く離れた病院にいて助かりました。
震災後、小学生になった羽奈ちゃんは、毎週、幼稚園の献花台を訪れ、置かれたノートにメッセージを書き続けていたそうです。「まるで亡くなったゆいちゃんが目の前にいて、話しているかのよう」だと、記者は綴っています。
住職として多くの「死」を見た末に思うこと
私は住職として、多くの人の死と、その家族や周囲の人たちに会ってきました。予期せぬ別れであったり、辛く悲しい別れにも出会ってきました。それらの経験を通して私が学び感じてきたことは、「死はすべての終わりではない」と仏教が2500年にわたって説き続けてきたことは、ほんとうにその通りだったなあということでした。
そして、仏教が説いてきた「死はすべての終わりではない」ということは、自分自身の死ということと遺された方々にとっても、その両者に言えることなのです。
ご法事のあとの食事の席で、ご門徒さんからこんな質問を受けたことがありました。その方は、子どもたちはみな独立し、夫婦2人で暮らしてきましたが、夫に先立たれ、いまは家にひとりで暮らしているそうです。お仏壇に向かって、昨日あったこと、今日あったこと、うれしかったこともつらく悲しいことも、時には愚痴や不満も話しかけるそうです。「そんなことをしてはいけませんか」というのが質問でした。
そのとき私は、「おうちのなかで、何でも話しかけられる場所があってよかったですね」とお答えをしたように記憶しています。今までは、家の中で話しかける相手がいたのですが、夫に先立たれひとりになってから、いつしかお仏壇に向かって話しかけるようになったというのです。
お仏壇の前に座ったとき、阿弥陀さまを見つめながら、亡き夫の思い出のものを見つめながら亡き夫に話しかけているのかもしれません。話しかけても決して返事がもどってくるわけではありませんが、いつでも、いつまでも、ずーっと黙って聞いてくれているのでしょう。きっとどんなに日々支えられていることかと想像いたします。
亡き人に会う「とき」「ところ」が、生きる力を与える
仏教がこれまで、「死」を通して「生」を考えていくことを示し続けてきたからこそ、私に生きる力を与え続けてきたのではないかと思っています。そして、わが「いのち」を精いっぱい生きていくためには、時には亡き人に出会える「とき」「ところ」が必要なのです。
その出会える「とき」や「ところ」は、人それぞれです。その一つに、お寺の本堂やお仏壇、あるいは儀礼があるとするならば、いまを生きる私にとって、宗教的空間や宗教の意義はとても大きく大切なものではないかと思うのです。
宮本 義宣(みやもと・ぎせん)
1962年川崎市生まれ。大学卒業後、企業で広告デザインの仕事に就く。その後、結婚を機に自坊のお寺に戻り、2005年に浄土真宗本願寺派髙願寺住職を継職。武蔵野大学通信学部講師、東京仏教学院講師などを務める。
※本記事は『築地本願寺新報』に掲載された記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。