「するべきこと」を見出せば、よりよい道は開かれる【多田修の落語寺・景清】
目の不自由な定次郎は、目が見えるようになりたいと、石田の旦の勧めで清水の観音さまに願掛けをします。欠かさず通い続けて100日目、期待したのに見えるようになりません。すると定次郎は観音さまに暴言を吐はきます。それを聞いた石田の旦那は定次郎をたしなめ、明日からさらに100日通うように言い聞かせます。その帰り、定次郎は雷に打たれます。気がつくと、目が見えるようになっていました。
「清水の観音さま」とは、上野の寛永寺のお堂の一つ、清水観音堂のことです。京都の清水寺に見立てて建立されました。清水寺と同様、ご本尊は観音菩薩です。
演題の「景清」とは、源平の戦いでの平家の武将・藤原景清のことです(平景清とも言われます)。謎が多い人物ですが、伝説では源氏の世となった後に自らの目をくりぬき、その目を清水寺に奉納したとされます。この伝説は浄瑠璃「大仏殿万代石楚」などの題材になっています。落語はそれを踏まえて、景清の目にちなんだお堂に参拝することになっています。
お参りしたのに願いがかなわないと、悪態をつきたくなるでしょう。でも、そんなことをしても事態は良くなりません。私の経験で言うと、頭に血が上ると自分が損する道を選びやすくなります。それは、「今の私がするべきことは何か」に目を閉ざしているからです。「するべきこと」を見出したなら、より良い道に目が開かれたことになります。
多田修(ただ・おさむ)
1972年、東京生まれ。慶應義塾大学法学部卒業、龍谷大学大学院博士課程仏教学専攻単位取得。現在、浄土真宗本願寺派真光寺住職、東京仏教学院講師。大学時代に落語研究会に所属。