表現の自由研究「愛」
どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。
文献や動画を参考に考えをゆるくまとめる、大人の自由研究企画。
今回は「愛」について。
この企画の最初と最後に持ってきて、企画全体の大きなテーマとして扱う想定です。
愛と一言にしても、様々な愛があります。
友愛、恋愛、親子愛…
友情や性欲、教育の義務、などといった概念よりも、愛というのは高次であるという印象を受けます。
そんな愛、理解して写真や文章で表現できるでしょうか。
そもそも、私は愛を理解しているのか、理解できるのか。
文献をあたりながら考えて、「よくわかりませんでした!」と結論を出す記事、ご覧ください。
企画の概要、各回へのリンクはこちら。
1.愛の種類
結論から言うと、色んな学者先生が色んな主張をしており、いっぱしの在野趣味物書きな私程度には「これこそ愛の真理や!!!」みたいな結論が出せませんでした。
しかしそれでは話にならないので、少なからずインプットが出来た点を整理する形で。
・隣人愛、友愛
隣人愛については、旧約聖書から引用ができます。
この隣人という概念がまた難しいのですが…
突き詰めれば「全人類」、狭い考え方をすれば「関わりのある人」を愛しなさいよ、という教えでしょう。
愛における基底であって、その他の愛は隣人愛の部分集合と言い換えられます。
そして友愛については、隣人愛とほぼ同義と捉えられるようです。
言い換えるなら、「友の友は私の友でもあるので、人類みな友であり兄弟」という博愛主義的主張が隣人愛であり、友愛であると。
実に難しいですね…
と、引用を交えて話をしましたが。
断りを入れておくと、私自身が「友情」という概念を持ち合わせていないので、そもそも友愛を理解する土壌が枯渇している恐れがあります。
友情と友愛は異なる概念なのか、地続きなのか。
ここで今回の種本「愛」(苫野一徳 著)を参考に要約してみます。
つまり友愛は、愛着を抱いた対象へ、エゴイズムを捨てた形での「理念性」のある友情が必要になると。
この理念性という考え方を、他の資料も併せて考えてみます。
・恋愛
またまたですが、私が恋愛だと思っていた感情は恋愛ではなかったので、そもそも恋愛についても土壌がゼリーです。
さて、恋愛に至る本能的な次元でのトリガーは「性欲」と言えるでしょう。
人間も動物であるからして。
しかし社会を発展させていくうえで、宗教や法律などで性についての制限を加えてきた以上、何かしら恋愛との間に理念性の壁があって、低次に留めておく不都合があったのでしょう(「なぜ制限を行ったのか」という論は色々危なさそうなので触れません)。
…と、ここまで書いてきてギブアップ。
他の愛については文献が豊富なのですが、恋愛は「相手を落とすテクニック」なコンテンツで溢れていて、その本質にたどり着けませんでした。
とりあえず言えそうなのは、「相手を一人の人間として尊重する」という考え方によって、性欲におけるエゴを超越できそう、ということ。
後で他の文献でもって補足をします。
・親子愛
親子愛ほど、語りやすそうなのに脆い愛はないと思いました。
なんせ、お腹を痛めて産んだ子供であっても虐待や遺棄できてしまいますし、逆に養子に愛情を注ぐこともできてしまうからです。
ともすると、親子愛に必要なのは「産んだ」という過程ではない、ということ。
出産を経たから親になるワケではなく、子供を育てたからと言って愛が育まれるワケでもないのです。
(再度曖昧しますが)親子愛には「見返りを求めない」が根底にあって、「無償の愛」ともいわれる理想が必要なのです。
子はそもそも自我が確立されていないので、一人の人間として尊重するには限界があります。
当然見返りは帰ってきませんので、エゴイズムを介することができず(代理ミュウヒハウゼン症候群などを除く)、恋愛などと比較しても理念性は必要そうです。
では如何にして無償の愛たり得るかといえば、こちらも後の文献で。
ちなみに自分の親子愛を振り返るとモヤモヤが取れません。。。
2.E・フロム「愛するということ」(エアプ)
見切り発車で始めた企画なので、文献に当たれぬままエアプします。
エーリッヒ・フロム著「愛するということ」。
乱暴に要約すれば、「愛されることではなく、愛する技術を身に着ける」ための本です。
愛そのものへの言及は多岐に渡っている一方、タイトル通り「愛するということ」に着目して言及されており、抽象的な概念を「人と人との間に発生するもの」として捉えるには最適と思います。
さて、本の中で指摘されている重要な点を取り上げます。
ここまで触れてこなかった「自己愛」が出てきました。
意図的に伏せていましたが。
フロム曰く、自己愛あっての隣人愛、そしてその他の愛。
つまり恋愛の項で触れた「相手を尊重する」という考え方は、前提として「自身が自立・自律した人間であること」を含んでいるという指摘です。
そして自立や尊重を高次の段階まで引き上げたときに、初めて「自己愛」「隣人愛」が生まれるのだと。
この自己愛、紐解けば他の愛を実現するヒントたり得ると私は考えます。
恋愛においては「自分を満たしてくれるのは自分であって、相手はプラスアルファ」だと考えると、そこにエゴイズムが介在しません。
親子愛も同様、子は自分の未熟さ至らなさを満たす装置でなく、自分が愛を注ぐだけ注ぐ一方通行にこそ理念性がある、と。
どこで自己愛が育まれるかと言えば、幼少期における親とのコミュニケーションとのこと。
前段取り上げた、親からの「無償の愛」を享受することで、自己愛の形成がなされます。
親が無償の愛を与えられなかった場合、もしくは何らかのトラブルで無償の愛を認識できなかった場合。
そんな人は、自分を愛することのハードルが高くなってしまうのです。
3度目の自分語り。
私は私を愛せていません。
3.愛は表現可能か
表現の自由研究ですので、表現可能か否かを考えます。
結論から言えば「今の自分に愛は表現できない」です。
私は私を愛せていません。
プロレスラーやモデルさんを称賛するという代替でもって、自分に愛されない自分を慰めている気がしています。
しかしそれはエゴイズムの成れの果てでしか無い。
果たしてそんな自分が「愛」を表現できるかと言えば難しいでしょう。
客観的に演劇などで愛をテーマに描かれた作品があれば、そのままを切り取ることで、愛を表現できはします。
しかし友愛も恋愛も親子愛も、果ては自己愛にも恵まれぬ自分が、恣意的に「自分なりの愛」を表現することは叶わぬ夢。
フロムによれば、資本主義経済の時代においては、自己愛が形成されにくいとしています。
市場の合理性を優先し、損得勘定を行ううち、自己すらも犠牲にしなければならない結果味わう孤独からの逃避。
その結果が、歪んだ恋愛や親子愛、満たされぬ自己愛につながると。
しかし「愛は難しい」終わっては何も始まりません。
「表現の自由研究」を通じて、毎月目標を掲げ達成していくことで、少しずつ自己愛を形成していく。
それがこの企画の裏テーマです。
なので初回と最終回のテーマに愛を入れています。
果たして1年かけて、愛は表現可能になるのか。
写真や文章を通じて、誰かを愛することはできるか。
私は誰かを愛して、それを表現したいのですから。
今年数字的に人生の節目を迎えるにあたり、今一度自分と向き合う旅をしてみます。
4.感想
愛そのものについて。
人類の歴史を辿っても、果てなく思考されてきた概念だなと認識させられました。
そして実現するハードルの高さに打ちひしがれるのでした…
何より自己愛についての言及は避けられない絶望。
次回予定の幸福についても、おそらくは認識のゆがみを起こしている自分に痛い言及がなされるのだろうと。
気安く始めた割に重たいなぁ…
また今回、メンタルのトラブルを起こして読書スピードが滅茶苦茶低下してしまい、参考文献の量が足りていませんでした。
結果エアプを繰り広げてしまったので、フロムの著書だけでも後々読んでおかないとなと思っています。
次回のテーマ「幸福」では、少なくとも2冊の本を種本にしていくつもりです。
また読んでくださった方の満足度を上げられるよう、構成も考えなければいけません。
今回みたいな突貫だと物量が多くなってしまって仕方ないので。
多くの反省と絶望を抱え、次の1か月取り組んでいきます。
お付き合いいただければ幸いです。
5.参考資料
ご覧いただきありがとうございます! サポート頂きましたら、役者さんのコーヒー代、撮影機材への投資、資料購入費として使わせていただきます🙏