美しいと認識する力・2:イマニュエル・カント「判断力批判」
量の数学的判定にとっては、最大量というものは存しない(数の威力は無限に進行するから)、しかし数の美学的判定にとっては、言うまでもなく最大量がある。
上 p.156
カントの判断力批判を読んでいるが、こんな1節にぶつかった。
これは数学の叙述としては、誤りであると一瞬考えた。無限に進行する系列があっても、最大値はありえるではないか。たとえば、無限に続く系列の X(n) {n=1, 2, 3 ... ∞}が、X(n+1)>X(n)でありながら、Y > X(n) であるYが存在する、そんなX(n)を作ることは可能である。そして X(n)がYを端点とする閉区間(あるいは半開区間)の要素であるとすればよい。
しかし、そんなYが最大量であると言えるかというと、Z > Y となるZが必ずあることを考えてみると「無限に進行するから」というのはなかなか含蓄が深いもので、論理にもとづく概念そのものは無限に拡張ができ「これが最大」「これが究極」というものはなく、常に相対的なものである。無限大は無限小にも考えられ、また無限小から無限大の範囲を、0~1の範囲に、その性質を失わないまま変換することだってできる。
それなら、概念の範囲を規定し、その範囲内で、何か「量」を定義したときに「最大量」が初めて存在すると言えるだろう。このときに概念が対象とする集合の要素が有限でも無限でもよい。要素が無限にある場合でも、量を適切な関数で有限の範囲に抑えることができる。
つまり、数学的判定としての「最大」というのは、対象とする集合の範囲や「量」の定義によるのだから、その定義に仕方によってはなんとでもなるし、最大のものが最小にだってなるわけだし、大小関係の順序だってどうにでもなるものだ。
結局、なんだか正しいような間違っているようなことをグズグズと書いてみたが、なんのことはない、最大であるものがあるように考えたから、その中で最大のものを見つけることができる、というだけなのだ。
そこに絶対的なものはない。
だから、カントは次のようにいう。
量の論理的判定はすべて数学的判定である。
(中略)
してみると我々は、そもそも判定の根本ともなるべき第一の尺度即ち基本的尺度をついにもち得ないわけであり、従ってまた与えられた量に関して一定の概念を得ることはできないだろう。
上 p.156
美しさとか感動に「これ以上のものがありえない」という至高のものや崇高なものがあるとするならば、それは数字に置き換えることはできず論理的判定・客観的ではありえない、ということになる。
美学的判定というのは、カントの定義にによれば、客観的にではなくて主観的に規定された判定、ということだ。
絶対的で究極な何かがあるとするならば個人個人の経験や意識によらずに成り立つ何かがあるはずで、そのように考えて主観を排して客観的な存在を求めれば求めるほど、個の存在は消え失せ、無限の自然と宇宙が現れる。そして求めていたはずの絶対が消え失せ、すべては無限に続く相対的な関係だけになっていく。
しかし1人の人間として現実には、あいも変わらず有限の時間の中で、有限の空間のうちに、有限の体験と有限の概念をもって生きていくしかない。だから、しょうがないよね、と探求を停止するのではない。信じるところに従って行動し、美しいものを美しいと感動する、これが正しいと思える、これが最高だと思える、そういうことはどういうことなのか、私達が生きていく場を理性と論理でもって考えて追及していこう、というカントの強靭な精神を、ここにも読むことができる。
判断力批判、やはり重厚で難しく、予定よりもかなり遅れているが、三批判書の3冊目、きっとカントの中でも思想がより熟成したのかもしれない、とても面白く読んでいる。
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