生命のはずみ・4:ベルクソン「創造的進化」第二章 生命進化の発散方向
ベルクソンの「創造的進化」を読み始めたのが7月(2022年)の初旬、一日5ページくらいの割で、章の終わりごとに note に思ったところを投稿しながら、余裕をたっぷりとって10月末に読了予定にしている。
第二章も先週に読み終えたので、今日・9月4日時点で私の理解したところを、予定どおりにつらつらと書きとめておこうと思う(*1) 。
第一章では生物の進化について機械論と目的論の視点から考察し、進化論をめぐる1900年ごろ当時の諸説を吟味し、ベルクソンの思想の中心「生命のはずみ」を導入したのだった。第二章はそれを受けて、生命の様々な形について例を挙げながら考察し進化と生命について深堀りしていく。
最初に動物と植物の比較を通じて生命の様々なあり様が収斂の方向ではなく分裂・発散の方向に進んでいることを改めて見る。植物は動かずに自らの生命維持のために必要な物質を環境から直接取得し合成する。動物はそのようにして固定されたエネルギー源を取得する。その中で食虫植物の例もあげ、それらの中間もあることを指摘することで論を補強しているところに説得力がある。
次に、昆虫や動物と人間の生命活動のありようを比較することで、知性や本能は運動と行動に基づき発達した能力であり、本能は特定の具体的な事物と環境そのものを直接の対象とする能力、知性はそれらの形式について広く一般化して捉える能力であることを説く。知性は、その能力によって運動・行動の選択肢を大きく広げることができ、どんな環境にあっても困難を切り抜ける能力を獲得したわけだ。
しかし、だからといって知性に特別な地位を与えているわけではない。本能も知性も両方とも根源は同じところから違った方向へ分裂したものであって、その大きな方向の中で複雑に分裂して多様化していく中で現れた一形態にすぎないと説く。すなわち、知性にしても、知性という最高の形に収斂するべくして収斂してきたというわけではなく、むしろ多様な形態への分裂と発散の運動の中で環境に適応した可能な形態の一つとして現れた形にすぎない、と指摘する。
本能の働きについて、蟻や蜂さらには寄生蜂などの例を挙げているが、このような博物学の豊富な知識を引用しながらの説明は、なるほど、本能と知性についての考察をより一層具体的で興味深いものとする。
知性は行動の選択肢を広げる、と上に書いた。
本能は対象とする事物や環境が変わるととたんに機能しなくなる。例えば寄生蜂がどんなに巧みにある昆虫に卵を産み付けるにしても、寄主とする昆虫は限られているし、自ら工夫してそれを広げていくことはない。その寄生の仕方を見ると、まるで蜂が寄主の神経構造やその働き・身体の作りを精密に理解してそれに従って運動し行動しているようだが、そういうわけではない。その選択肢は具体的な対象に限られ、自ずから制限されている。
ところが、知性は、対象とする事物や環境の関係を形式的にとらえることで、特定の事物や環境で起こりうること為しうることを、他のまったく違った事物や環境下で起こりえて為しえると考えることができ、それゆえに、何かを得るために様々な行動の選択肢を広く手の内に持つことができる、というこういうわけだ。
知性は、自分自身も含め、事物、現象、環境、それぞれの間の様々な関係を作ることができ、だからこそ、作られるべきものを作る能力を持ち、また自らを超える能力をも有していると言える。
ところで、知性は知性の論理で本能や生命を理解しようと試みるが、それはできない。知性は生命活動の一部であり、作られるべきものが作られたものではなく、本能と同じようにたまたま出来てしまったものだからなのだろう。そしてなにより、生命活動は知性によって理解されるものではなく、私たちが生きる活動そのものであるから、ともいえるだろう。
単純に進化の系統樹を思い浮かべていれば、それほど理解しがたい話が展開されているわけではない。ずらっと無数に存在する多様な生命体のなかで人間はその中のほんの一種でしかないし、人間が地球で一番繁栄しているわけでもなければ、一番高等なわけでもない。知性も同様であるが、人間と知性が自らの視点からのみ生命を捉えがちであることはなかなか避けることはできまい。
人間は戦略を持って知性を獲得したわけではない。たまたま知性を獲得した人間がその能力を活用して、様々な環境と様々な環境の変化に適応する様々な戦略をもってあたることができ、そのような行動を通じて自らの能力をアップデートすることができ、さらに広い選択肢を持って戦略を立てることができるようになる、このサイクルを回すことができたわけだ。遠い未来から逆算して戦略を立てたわけではなく、戦略を立てて未来を切り開いてきたのだ。
ところで、ここまで「生命」とか「生命活動」とか簡単に書いてきたが、「生命を持たないもの」「生命活動を行わないもの」とはなんだろう。本書では「有機体」「無機物」と分けているが、その中間にあって、どちらともいえないものもあるのではないだろうか。例えば、当時には知られていなかったが後になって電子顕微鏡の発明によって初めて存在が確認されたウイルスはどうだろう。ウイルスは単独では増殖もできず生命を持たない「もの」でしかないが、DNAあるいはRNAを持ち、細胞に入り込むことで増殖することができ、生命活動を行い得るものだ。
あまり複雑なことを考えずに、自らを複製する能力を持つ有限の記号列からなる情報を持つ有機物を生命の実体と考えてもいいのかもしれない。そして、生命活動とは、時間とともに分裂して多様化していきつつ新たな秩序が生成され環境の中で維持され拡大していく活動と考えてもいいのかもしれない。このように考えた場合、ウイルスは生命体の一部と考えることとなるだろう(*2)。
このように考えてきたところで、竹内啓著「偶然とは何か」で読んだことを思い出した。
さて、それぞれが自律して生きる細胞が集まって様々な器官が生まれ、そんな器官がそれぞれ自律して生き、さらにはその器官が集まって個体として統一された生命活動を担っている。それぞれの蟻や蜂がそれぞれの生命活動を行いつつそれぞれの役割の活動を行い、全体種としての生命活動を担う。必ずしも階層がはっきり分かれているわけではないが、本書を読んでいると、そんな当たり前の事実が思い出され、不思議な感覚でいっぱいになる。
また、知性の能力として「人工物なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作にはてしなく変化をこらす能力(p.171)」と指摘し、人類を定義するならば「だぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないでホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。(p.171)」というあたりも、具象と抽象の行き来の中で重要な役割を果たす「道具」への考察が広がるし、知性の持つ形式の認識、記号化、抽象化の能力から、言葉・記号、論理学、幾何学と、知性の働きへの考察へと、地平が広がる。
これらのこともとても興味深く、ぼんやりと考えているところもあるが、既にだいぶんとりとめもなく長くなってきたので、別の機会に譲ろう。
私たちはどこから来て、どこへ行くのだろうか。
■ 注記
(*1) 調子よく読み進めることができれば、だいたい3週間おき、次は第3章までが9月25日、続いて第4章までで読了10月16日、最後にまとめとして10月30日ということになるだろう。これから、本記事や以前の記事、そして続く記事も、読み進んだところで気の付いたところ、私の理解の誤りの部分など、徐々に修正していくことになるだろう。
(*2) そのように考えると、もっと広く、世界中のコンピュータで構成される情報空間の中の情報も同じように生命体と考えることができるのかもしれない。といったん書いてみたがすぐに消した。本文に書いた「生命」や「生命活動」に対する考察そのものがあまりに浅く未熟であり、いわんや、コンピュータ、AI、量子コンピュータなどへの考察などまったく深堀できていないためだ。とはいえ、忘れないようにここに書いておく。自分が読返したとき用だ。
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