
【読書】永井均『存在と時間 ── 哲学探究1』
(この読書メモは、2019年5月に書いたものです)
「私(存在)」と「今(時間)」の不思議さについて、ひたすら掘り下げます。
この二つ(特に前者)は永井さんの主要テーマなわけですが、本書の元になっているのが連載もの(文藝春秋の『文學界』という雑誌だそうです)のせいか、後半のライブ感が凄くって、永井さんの思索にずるずると引きずられるように頁を手繰りました。
どうもこの印象は正しかったらしく、あとがきに「ある種の読者を念頭においてスタートしたにもかかわらず、途中から読者のことなどまったく考えない『孤独な闘い』に陥った」、「第二部(中略)から後に書かれていることはほぼすべて書いた時点で新たに考えたことである」とあります。
どうりで、後半はなんだか筆が乗ってる感じがする。読者としてはついて行くのが大変ですが。どうかな……ついて行けてないのかも。
おそらくほぼ同時期に翻訳と付論の執筆をされていたであろうマクタガートの『時間の非実在性』を、以前、読んでいたので、「時間」をテーマにした本書の後半には「似たことが書かれているのかなー」と勝手に想像していたのですが、実際にはそこからさらに新しい発見が積み上げられていました。
なので、もし読むのであれば、
『時間の非実在性』
『存在と時間 ── 哲学探究1』
の順序をお勧めします。上梓は前者の方が一年あとなんですけどね。これはB系列の本質に反している?
ところで、昔、永井さんの『<子ども>のための哲学』を読んだとき、自分の読書メモに、
── 脱人格的自我というのは、固有の記憶からも解放されていると理解していいのかな。けど、過去との連続性なしに<ぼく>は<ぼく>を特定できるだろうか ──
と書いていましたが、本書を読んでこの部分の疑問は解決しました。永井さんの思考実験では、脱人格的自我はやっぱり、記憶とそれによる連続性を持ち合わせてないようです。そして、だからこそ本書の思考実験の結果はおもしろいことになります。
自分はいつも、読んだあとに何かしらメモを残すようにしているのですが、今回、メモしておきたい自分の所感は、「世界のすべてがここから始まっているという意味合いで、ひょっとすると<今>と<私>は不可分じゃないのか」ということです。今度、もうちょっと考えを整理してみよう。
話は飛ぶのですが、今年はUTMF(※1)に全てを賭けていたのでほかのレースにエントリーしてません。それなのにDNF(※2)。このままだとITRA(※3)ポイントの不足で来年のUTMFのエントリー資格も得られない状況です。こうなると当面リベンジへの道も閉ざされます。
人間、目標を見失うと生活に張りが無くなりますね。それで活字に逃げ込んでるのかも。こういうのを“非リア充”というらしいですが、リアルが充実してないと読書がはかどるなあ。
良いんだか、悪いんだかですが。
(2019/5/24 記、2025/1/25 改稿)
※1 UTMF(ULTRA-TRAIL Mt.FUJI)4月に行われた、富士山の周りの山々を回る100マイル(165km)レースです。
※2 DNF(Did Not Finish) 自分はひざの故障で途中リタイヤとなりました。
※3 ITRA(International Trailrunning Association)国際トレイルランニング協会。完走したレースの難易度や成績に応じて協会からポイントが与えられるのですが、UTMFのエントリーにはこれが一定期間内に一定以上必要です。
永井 均『存在と時間 ――哲学探究1』文藝春秋(2016/3/28)
ISBN-10 4163904298
ISBN-13 978-4163904290