個人な反省
関係性の内側から問いかける
果たして現在社会で提供されているセラピーやケアと呼ばれるものはユーザーのためのサービスになっているのだろうか、そこには社会構造の歪みはないのだろうかと考えていくと、健康に対する逸脱(ドナルド・D・レインなどの反精神医学の歴史も含む)や、女性と男性、マジョリティとマイノリティ、多様性やインターセクショナリティ、共生共創(もちろん人間意外の生物も含みます)と問題が非常に複雑になってしまうように思います。しかし、私個人という立場に立って、男性である私自身が受けてきた文化や習慣という扱われ方と男性であるから免れてきたことに目を向けてみるならば、(江原由美子著『自己決定権とジェンダー』、太田啓子著『これからの男の子たちへ :「男らしさ」から自由になるためのレッスン』に詳しく書かれています)いくつかの疑問が出てくるのです。
私自身学歴に苦しみや自身の経済的状況の困難があり、社会で上手く立ち振る舞うことが出来なかった人間であり、所属する集団など無く孤軍奮闘してきた人間なのですが、成績の悪い者は働くしかない、学歴が無い人間は肉体労働しかない、など様々な仕方がない、もう社会で決められていることだからという呪縛や、ルールを決める側と従う側、見えない制度や構造のようなものがあったように思います。そして、そこには個人を属性で判断し、あいつは「アレだから…」と不当な扱いを受けることさえ仕方がないとされてきたように思います。
とはいえ、このような言説は私個人の素朴な体験にしか過ぎませんし、実際の世の中はもっと違ったものかもしれません。また、権威主義や家父長制のすべてを批判するつもりはありません。そして、私自身男性であるため無自覚に権威主義や家父長制に救われたり、温情を受けてきたこともあったと思います。だからこそ、ひとりの男性としてどのように声を上げることができるのかを考えるのだと思います。それは、女性からの言説や、またそれとは異なった言説を持つ人々とは異なるものでしょうが、男性である私自身がそれを語ろうとすること自体に意味があるかもしれません。
そもそも精神療法、心理療法、セラピー、カウンセリング、心理支援、対人援助、相談との違いは何か?という共通理解が不明確です。しかも、世の中には、様々な概念や心理療法に対する言説(それはスティグマともいえるし、実際に数々のスティグマを生み出していると言えるでしょう)になっているところもあるでしょう。そこで、それを話し合っていく必要を感じるのです。しかし、それを対話と言ってしまうと非常に陳腐ですし、方法論的になってしまうと思います(社会構成主義については慎重に検討したいと個人的には思います)。
しかし、然るべき声の上げ方というものもあるような気がするのです。それは、正しさではなく、安全が保証されるという構造であったり、関係を少し違った眺め方ができるような視点や、過剰な責任から免れられるような空間が必要なように感じるのです。それは、私達がどのように世界や他者を認識し、どのような歴史や習慣を営んできたのかを時間的・空間的(歴史的・地理的)に振り返り(相手の立場に配慮と敬意を示しながら)、これまでの関係について戸惑いや疑問を持つよう感覚ではないだろうか、または疑問を持ちながらよりよい問いを立て、関係を模索する方法をみつけようとすることではないだろうかと考えています。
専門性と倫理
医療機関で提供されるセラピーやケアといったサービスは、法律や医療、保険制度などという社会的な制度に則って提供されています。そして、その専門性は体系化されて専門家と呼ばれる人が担っています。しかし、まだその制度は身体的な医療に比べて充分に整っているとはいえないのが現状だと思います。またセラピーやケアを提供する専門家を育成する制度や、専門家の定義自体もまだまだ混迷している部分もあると思います。
専門性を維持しながら適切なサービスを提供し続けるためには継続した勉強が必要になります。もちろん語学や数学(統計)といった学問も必要になります。こうした基礎的な学問を身につけていないと独りよがり考えになってしまうと思います。専門家は学会や職能団体というコミュニティで、論文という形式をとって研究を報告することが重要ですし、その道徳や倫理の中で、よりよい問いを立て、仮説や思考を発表していくことが大切だと個人な体験として反省しています。
とはいえ、多様な現場のことを考えると、専門性の定義が曖昧になったり、専門家同士の分断が発生することもあると考えられます(何故か学会は2つに別れがちです)。それは、結果として専門性の質を落とすことですし、ユーザーの不利益をもたらしてしまうと考えます。そうすると、専門性の棲み分けといったことが必要になります。医療で提供されるセラピーやケアは基礎研究に基づいたプロトコールが開発され、それらに則ったサービスが提供されるべきといえます。
また、専門家だけでなく、基礎研究をしている研究者の貢献というのもあると思います。基礎研究の扱い方は慎重になる必要があります。基礎研究を自分の利益に使おうとすると、基礎研究に基づかない独自の理論が生まれたり、誤った解釈や独りよがりの考えが流布してしまい、それが誰かの安全や利益を脅かすことになってしまいます。新しい理論に飛びつくのではなく、慎重に研究を続けながら、批判を交えながら検討していくことが専門家には必要で、こうした害を及ぼさないために専門家の倫理が問われる、と考えられます。
では、多様な現場でどのようにサービスを提供していくのかを考えていくと、まず第一に、自らが提供しているサービスが、どのようものか、そのサービスが対象すること、その限界や今後の見通し、ユーザーが利用するに当たっての負担などを自覚し説明できるかがあげられると思います。その中で、ユーザーに対しての説明責任や、ユーザーの幸福を満たす合意を形成していく過程が非常に重要になってくると考えます。この辺りは、ユーザーの置かれた状況や環境の多様性や人権といったことへの配慮がとても重要になってくると思います。
患者の立場から
自分自身が病気で倒れてみて感じたことは、働けなくなるということは、いくつかの自分を失うことだということです。社会的な自分、経済な自分、生活する個人としての自分、こうしたいくつかの自分と、世界との繋がりを失い孤立していく体験でした。
その中で、どうにもならない現実に絶望感に苛まれることもありましたし、他者と自分を比べてしまったり、自身の存在を批判してしまう苦しみもありました。世の中には、理不尽な現実もあり、自分の無力感から自分自身のケアを放棄してしまうことや、自分が世界から迫害されているように感じこともありました。そんな時は、助けて欲しいという言葉は出て来ません。世界からも、自分からも拒絶され、エネルギーが枯渇して、死に追いやられような、そんな自分だから、今こうして苦しんでいるんだ、自分の存在は無価値なんだと、自己批判の呪縛を締めつけることになってしまいます。
もしかしたら、セラピーやケアを求めてくる、あるいは必要としているユーザーも同じような体験をしているかもしれません。たとえ、不備や過ちがあった人だっととしても、その人なりに生きてきた過程は無視できるものではないのではないでしょうか。
私自身、我執が強く、物事や自らの持っている考えに固執してしまうところがあり、病に倒れるまでは、世の中には、本当に多くの人がいて、自分の知らない国や土地で、毎日を暮らし、日々の生活を過ごしている人が沢山いることに気づきませんでした。時には、事故や事件、戦争や災害が起こり、名前も知れず命を落とされていった多くの人間がいます。自分のやりたいことを仕事に出来る人間は、ほんの一握りかもしれません。自分のやりたいことではないけれど、自分の環境で、自分なりの役割や方法をみつけ自分の居場所をつくり生きている人も多くいます。そんな当たり前のことに気づくことが出来なかったのです。
ある時、バイザーと職業的アイデンティティのやりとりをしていた時に「自分の思いを成し遂げる人なんてひと握りで、自分の思いを成し遂げられずに人生を終える人の方が多いんだよ。そんなかで自分が専門性のある職業につけたことはとても恵まれたことだということをもっと考えなさい」という趣旨のことを言われたことがあります。そんなの事を思い出しながら、自分自身の至らなさや小ささを反省しました。
そうした時に、思い返すことは、たとえ些細なことであっても誰かとやりとりをしたことは何かしらが残るということです。そこには、誰かのひとつの生が現れるような、ひとりの人間の存在を大切にするような心境と、その存在に圧倒されるような体験があったように思います。誰かの話を聞くということは、その存在の声や記憶、潜在的な未決定性と傾向の在り方、その自己矛盾と折り合いのつけ方と、時間の流れともに形成されてきた目の前のひとりの人間に、自らを投地して相対し、耳を澄ますことかもしれません。そして、患者として思うことは、もっと私の話していることを信じて欲しい、もっと私のことを分かって欲しい(それは必ず安全安心が確保された状態で)ということです。
学問と権威
専門性とは話が異なりますが、何かしらの学問(ここではセラピーやケアに関する専門性だけでなく、人文領域、美術や建築などの学問を含みます)についての教育を受ける格差や個人への負担は拡大していないか、ということが私の危惧としてあります。それは、その学問での問題意識、道徳や倫理、方法等といった実際の活動を学ぶ集まりに所属する機会を得られないということです。
では、何かしらの学問の教育を受ける体験とはどういったことなのでしょうか、きっとそれは〈教えるー教わる〉という単純な〈教師ー生徒〉という関係とは異なると思います。自分達が置かれている環境自体を含む中で学問的なやり方や方法を学ぶ体験であり、師弟関係でありながら、ただ師を目指すだけではなく、師とは違った自分自身の問いであったり、問題意識を研究していく原動力を備えるような期間であるようにも思います。それは、学問的であるだけでなく、極めて政治的でもあり、経済的でもあり、人間社会の縮図ともいえる関係に関する学び(もしくは、偶然や必然の出会い、宮野真生子著『言葉に出会う現在』が参考になるかもしれません)のようにも思えます。そこでは、師が弟子となる人に自らが個として働くよう何かを分けるようなケアの倫理があるかもしれませんし、弟子自身が、自らや世界や他者と結びつくようなケアの倫理があるのかもしれません(ここではメイヤロフいうの関係性の中で自己実現していくことを指しています)。
そうした、体験は対人援助職につく専門家であれば個人やグループのSV、学会や研究会などに所属して学ぶことが習慣だったと思います。そうした体験や、仲間同士で読書会や勉強会を運営していきながら、自らの活動を拡げていくことがあげられます。そう考えると、何かしらの学問の教育を受ける体験は家族とは異なる集団で、体験する関係の結び方や解き方のようにも考えることができるのではないでしょうか。
たとえ誤った歴史や認識を、繰り返してきたとしても、それとは異なる何かを伝達していくことは私達ひとりひとりに可能なことであり、そこで体験が、ひとりの人生を変えてしまうほどの力を持っていると思います。こうした、機会や場所といった出来事が、自らの問題意識を立ち上げ、自らが実践していくための場所や仲間がある(いる)ことは、社会にとっても、何かしらの学問の文化においても非常に重要であり、人間的な営みであると考えます。
私には、私たちは他者にとってよき伝達でありたいと願っており、それが何かを学び直したいと願う人への希望や関心になるようにも思えるのです。個人的には、いつだってそれを望む人には扉が開かれていて欲しいと思います。そう考えると、私達に出来ることは、自分自身がその立場に置かれた人間として、どのように世界や他者を理解して、どのような有限性の中でどのような実践してきたかを誠実に話したり、語るしか無くなるのかもしれません。
そういった場所で、自分が何ができるかを問いかけながら(時には理想とは異なる、ありものの私で、今できることを行いながら過ごしていくことも必要になります)、自己がつくられていくようにも思います。本当にすぐれた人は自らの権威に敏感で、その権威を自らの抑制のために使うはずです。その為には、どのような問いを自らに設定できるかということが重要だと考えられます。
自己とケアリング
人は自分自身の私秘性を抱えつつ、他者や社会に親密性を求めてしまうところがあるかもしれません。時には、こうしたことが暴力的に働いてしまうこともあるようです。私という、個人が社会で活躍できるには、私が安全な境界に保たれ、外界に適応する情動が充分に調律され、私が他者とのやりとりを楽しみながら、自らの傾向を育んでいくことが必要となると考えられます。そのためには、〈自己〉とどのような関係を築くのかは、考えてみれば私自身の抱えている問題や課題だったように思います。
今にして思えば、私自身が私という存在を持て余していたようにも思いますし、私自身を蔑ろにしてきたのも、また私自身だったのかもしれません。恥は私をより閉じたものにして、狭窄な認識を生み、恨みは他者を拒絶し、自分自身を批判する火種になっていたのかもしれません。こうした習慣は知らずのうちに繰り返され自らを批判的に規定し、また他者や社会に対する恐怖を再体験していたのかもしれません。
その中で、自分自身の身体にふれて、いま、ここでの自己の中にある、様々な関係性を捉え直そうとする時に、私が自分自身の人生でどんなことを欲望してきたのか、そのために何をしてきて、それを他者からどのように扱われたのか、そして本来は何を求めていて、どうすると自己は充足するか、と自分の歴史を棚卸ししながら、他者や社会とどのように関わっていけばよいのかと考えることは大切なことだと私は考えます。このように関係性の中から自己実現を捉えることは、メイヤロフのケアリングに繋がるのではと考えるようになりました。そして、おそらく自己実現は、生命レベルでの自己実現と人格レベルでの自己実現の二重性と矛盾を抱えており、この矛盾が個人の中で抱えきれなくなり、その安全閾を超えてしまった時に、自らの望みを破壊するようなことが起こるのではないでしょうか。この時に、エネルギーが枯渇するような、誰からも関心を向けられていないような、何かしら供給されるべき流れから孤立してしいる絶望的な感覚があるのかもしれません。それをあえて言葉にするなら、誰も私を助けることはできないし、誰も私を助けようとは思わないだろう、何故なら私は助かるに値しない存在なのだから、といった感覚なのかもしれません。
二項対立から外れて
手段は目的を誤れば、他者に害を与えてしまったり、社会から信用を失ってしまうことがあるでしょう。また、ユーザーの声に耳を傾けることと、ユーザーの声を奪い自らの手段としてしまうことは峻別されなければなりません。
専門家ではなくユーザー自身によって社会が形成されていく(少しずつ変化していく)ことが実は望ましいかもしれない、それこそがよりよいセラピーとケアにつながるのかもしれないと今では考えています(これは専門家が社会的責任を放棄することとは異なります、専門家は専門家の道徳と倫理がともなうやり方で社会に応答する必要があると考えています)。出会った人を思い返しながら、出来ることなら、そういったひとりひとりの想いや活動を支えていくにはどうすればよいのかを考えればよかったと、ひとりの対人援助職だった人間として反省しています。
少しずつですが、変わっていくこともあります。その少しが、どれほどの人の苦しみや痛みの声の積み重ねからなるのかを考えると、胸が締めつけられるところもありますが、その少しずつの積み重ねを大事に伝えていくことは、ひとりの人間の存在を大切に扱おうとすることに通じているように思います。こうした他者の存在を大切にするために、必要な道徳や倫理(正当な答えではなく、目の前で起こる出来事を判断し、他者に相対していく為の)を考えていく必要があるのではないかと考えています。
私の理解では、道徳というのは社会的に共有されていることを含む倫理であって、所属する社会の文化や習慣により異なり、公共性や自分が所属する社会以外の価値観に対する応答性が問われる倫理だと理解しています。そして、倫理とは個人が他者や社会と相対する時の判断として問われる、行為のための仮の基準であり、個人が他者に接する時の礼節でもあるように理解しています。また、ある立場から何かを語ろとする時にひとつの人格(アイデンティティ)が必要になるように思います。こうした人格(アイデンティティ)は統合、管理されていることがよしとされていますが、本来ならある一人の人間の立場が異なれば、異なる人格(アイデンティティ)が必要となると考えることもできるはずです。その時に「当事者(される側)ー支援者(する側)」というような二項対立が混乱や葛藤を生むことがあります。しかし、どちら側が正しいというのは誤った問いかけで、私たちは生き延びていくために、様々な立場にたって語ることができると考えてみることはできないでしょうか。ひとりの人間のなかにも多様性があり、多様にみえるひとりの人間のなかにもひとつの在立のあり方(自己組織化ともいえるかもしれません)があり、それぞれの記憶を分有して、社会構造を形成しているならば、私たちの自己実現は関係性の中で起こると考えられます。その時に、孤軍奮闘するようなやり方もありますが、それには限界があります。自己批判や拒絶といった破壊的な孤立に陥る前に、自分の周りに仲間がいることを、これから自分の仲間になる人がどこかにいること、あなた自身は大切にされるべき人であることを思い出すことは、この不安定な世界を生き延びていく時に、よすが(縁)になるのかもしれません。
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