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「特別で。普通の日を、」

紅顔の哲学者を目指して#24

2024年11月22日(金)

夜にこうやって、机に向かい日記を書くのは本当に久々だ。
夜、外が真っ暗の中、小さな照明をつけて1日を振り返る、そういうのが本来の僕の中での日記というものだったはずだ。
いつから、哲学日記を書き始め、このように日記を作品として投稿するようになってしまったのだろう。いや、いつからと書いたが、正確にはどうしてだ。どうして、そうなってしまったのか。こうして、本来書きたいことから脱線して長々と書いてしまいかねないので、今回は省こう。
今日やっとまともなというか、普通の休日を送れた。いままでの休みの日の過ごし方が、しょうがないとはいえ不健康的であり異常だったのにそれがずっと普通になっていた。
でも今日やっと、本来の普通の休日を過ごせて僕は満足で幸せだった。別に友達と過ごしたとかではないから、他の人から見たらとても平凡で簡素だと思うが、僕からしたら色々な意味で幸せだった。
今日一番嬉しかったことは、休みの日に1人で外に出られたこと、そしてこれは本当に嬉しかったけれど、やっと1人で電車に乗れたことだ。電車に1人で乗ったのは何ヶ月ぶりだろう。3ヶ月、4ヶ月ぶりかもしれない。
今の職場は歩いていける距離にあるので、電車を通勤目的で使うことはない。そして、休みの日は外に出ずに家で創作するか寝ているか本を読むか、大好きな人のSNSをずっと見るかしかしていなかったのでまず電車というものが日常から完全に消え去っていた。でも今日やっと久々に乗ることができた。よかった。本当に良かった。
普通を取り戻すことができた普通の日は、特別な日と呼んだ方が良いのかもしれない。
今日はそういった意味で特別で喜ばしい日だった。
電車に乗れたというだけで、喜ぶことのできる日。そういうのが一つでもあれば幸せじゃないの。でしょ?なので、幸せの日だった。
今日の予定としては、電車に乗って美容室へ行き、その後自然の多い公園にでも行って、天気が良かったから座禅風なことでもしたり、いつものようにスマホに書くのではなく、自然を見ながら紙に文章を書くというようなことをしたかった。あと、日向ぼっこをしながら本を読みたかった。
でも、残念ながら、美容室と近くの喫茶店に行くだけで1日は終わってしまった。大きい、だだっ広い公園に行きたかった。それが少し心残りではある。
でも電車に乗って、美容室に行くことができただけで、本当に上出来だったと思うから、満足だ。
次は公園に行って、ぼーっとしよう。ぼーっと。
ところで、朝はかなり体調が良くなかった。
ここ最近出るような気がするが、これまでとは一味違うような心のうずきのようなものが辛い。痛い訳ではないが、精神世界の(身体ではない)血管が存在したとしたら、そこを沢山の微生物に噛みつかれ、少しずつ喰われているような、はたまた、体の中の空気が工場の排気ガスや煙草の煙のように汚れていて、その汚れている様が気持ち悪さとかむずむずするような感じを引き起こしている気がする。
とにかく、よく分からなくてきつい。なんか、きつい。つらい感じだ。
でも、寝ていても良くならないし、つらいから、気を紛らわすためにスマホで動画を見始めた。(僕の別のエッセイのモデルにもなっている)大好きな、大切な人の創ったものを見た。新しい、昨日とかに投稿されたやつを見た。
結果的に言うと、とても元気が出た。立ち上がる勇気のようなものをもらえた。本当にいつも彼には助けられている。本当に大好き。だし、ありがとうと言いたい。彼のおかげで色々と最近悩んでいたこと(前回の日記)が吹っ切れた。
そして、立ち上がって今すぐ何かを書きたい、創りたいとなり、一個前の日記を書き始めた。それであのようなことを書いた。
彼のおかげでもあった。そして、昨日その悩みを聞いてくれた職場の先輩のおかげだ。
だから、寝ている状態から少しずつ起き上がろうと頑張った。
まずは、毛布をかぶってうつ伏せになっている状態から、仰向けになって、肩まで出る状態にした。
窓際で寝ているから、大きい窓から見える青い景色がとても綺麗だった。空ということを忘れるくらい青い背景だった。
そして、太陽の光が眩しくて、気持ちが良かった。寝てなんかいられないと。何をグズグズしているんだとなって、上半身だけ起き上がらせた。
そうしたら、不思議とさっきまでのよく分からない、得体の知れないむずむずした感じがなくなった。なくなっていた、気づいたら。
すぐになくなった。消えた。とてもあっけなく。あんなに苦しかったのに、最初から起き上がって何かしていれば良かったと、素直に後悔した。
そして、下半身だけ毛布をかぶっているような状態のまま、太陽の光を浴びながら窓の外を眺めた。その瞬間布団の上にいることがいたたまれない(気持ち悪い)感じがして、すぐにそこから出たくなった。
太陽の光はとても明るい。夜に僕たちを照らしてくれる人工的な光とは違い、超自然的な光だ。
とても明るい気持ちになれる。太陽の光を浴びると。そういう気持ちになるということは、とても生物的だ。僕はちゃんと、生き物だなあ、そして、人間だなあと思うことができた。よかった、安心した。
そして、外がそんな感じで明るい一方(もちろん天候において)、僕の精神界の中はと言うと、とてつもなく、は言い過ぎだが、少し、暗かった(天候で言うなら曇り)。
だが、いつもなら外の天気が良くてもそのまま寝てしまうが、今日は不思議と外の明るさや陽気さと僕の心の暗さや陰気さとの差異が作り出す、独特の不愉快さというか気持ち悪さのようなものが感じられ、すぐに布団から出て、とりあえず机に向かった。
早く創作しないと、という気持ちからであろう。
それはさっきも言ったように、最近の悩みであった創作できないという精神的負担からの、上司へ相談してスッキリしたことと好きな人からもらった活力による解放、それが起因となった行動だった。
机についたら、早速完成しているがまだ投稿していない日記をざっと確認し、扉絵にする絵を選び、公開した。2つの日記を投稿できた。6月と7月の日記。4、5ヶ月も前の日記だ。自分で読みながらこんなこともあったなと思った。
とりあえず、その2つの日記を公開できたら、外へ出かけようと思った。朝ごはんを食べ、日記を投稿し、服を選び、準備が整ったら、玄関で靴に履き替え、扉を開けてしっかり鍵を閉めた。そして、一人で最寄りの駅へと向かった。
無事に駅へと着いたらまずはパスモに千円をチャージして改札をくぐった。金曜のお昼過ぎだったから、そこまで混んではいなかった。いや、混んではいた。あ、そうだ。結構ぎゅうぎゅうだったな。
でも電車の中は快適だった。それは、混雑具合がとかではなく、症状が出ているか出ていないかという意味でだ。とてもよかった。ただ、電車を降りた時に思ったけれども、東京だからなのか、それとも電車本来の性質なのかはわからないが、少し疲れた。
いや、むしろ、電車というとてつもなく便利なものに馴れすぎているだけなのかもしれない。それはあまりよくない事だろう。本来は乗ったら気分が(不快ではなく)愉快になるはずだ。
だって、本来、どこかへ移動するとなったら、自分の足を使って歩くか、乗り物を使うにしても自分で操縦しなくてはいけない。それに対して電車は、たった数百円を払えば、そしてあの細長い機体へ乗れさえすれば、あとは座るか立っているだけで、何をせずとも目的地へと行くことができる。そんな便利で楽しいものはないではないか。そうだろう。そうではなかったか。そう考えると、時として慣れほど怖いものはない。
だから、本来は「疲れる」ものではなく、「楽しい」ものでなければならないはずだ。なのに、現代人は電車に乗ることで疲れている、どうしてだろう。当たり前だがそれは、身体的にではなく、精神的にであるが、どの様な要因が絡んでいるのだろう。いつかそれについて、哲学的に考えてみてもいいかもしれない。ただ、今回は省略する。
漱石の『三四郎』の中で、主人公が勉学や大学生活に疲れている中、その友達が電車へ乗るといいよと薦める場面がある。電車へ乗れば気分転換になるよとその友達は言う。
僕は思うが、本来はそうでなくてはならないはずだ。(なのに、いつから電車は苦痛なものという札が貼られる様になってしまったのだろうか。)現代では割と電車というものが、ストレスの要因として列挙することができるものへと変貌してしまった。僕も電車が嫌いだ。だからこそ家の近くで働く先を探し、今はそこで働いている。電車を使わずに徒歩で通っている。だから精神的な負担はとても減った。
まあ、とりあえず、一人で電車に乗れてよかったということだ。それだけ。長々と書き連ねたが、それだけを言いたかった。
そして、いつもの美容室へ行き、とてもいい感じに切ってもらった。本当はこの後に公園へ行くはずだったが、時間的にも夕方近かったし、明日も仕事で、しかもいつもの勤務先ではないところへ電車で行かなくてはならないから、あまり遠出をして疲れるのは本末転倒なので、美容室の後は近くの喫茶店へ行って作業をした。
本を読んで、文章をひたすら書いた。久しぶりに頭の中にある思考の束を少しずつ形にしていくことは楽しいなと、とても新鮮な思いがした。やはり、創作することは楽しすぎると、そして僕の生活にはそれが絶対的に欠かせないものであると、そう確信した。
キリの良いところで切り上げて、もう家へ帰ろうと思った。もちろん、電車を使って帰ってもよかったのだけれども、ちょうど時間的に帰宅ラッシュの頃だなと思って、そして僕はそれが苦手だったので、そこから家まではたったの2駅分しかないしと思い、歩いて帰ることにした。
無事に帰って来れた。家はやっぱり落ち着く。心も落ち着くし、身体も落ち着く。髪を3ヶ月振りに切ってもらい服が毛だらけなので早くお風呂に入った。
明日は電車に乗って、別の運動場に行かなくてはならない。今日の日記はこの辺りにしておいて、もう寝床につこう。最近僕の好んで聴いている熱帯雨林の自然音を再生して安らかな眠りにつこう。
なんだか、熱帯という単語を書いたせいで、レヴィストロースを思い出してしまった。悲しき熱帯と熱い祝祭。冷たい社会と熱い祝祭。浅田彰の『構造と力』の中で、そんな言葉がでてくる。
これを聴くと、とても落ち着くんだ。では、みんな、おやすみ。

そして、明日も気ままにゆるく生きよう。

、、、、。

暗い部屋の中で、"悲しき熱帯と熱い祝祭"のサウンドが心地よく響き渡っていた。
気づいたら、僕は眠りについていた。

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