ケアとは物語の書き換え ―「訂正可能性」の介護 3―爺のお勉強note
3.ケアとは物語の書き換え
(1)ケアの定義
近内悠太さんは「大切にしているもの・こと」という概念を用いて介護・ケアを定義しています。
ようするに、介護・ケアとは当事者(お年寄り)の「大切にしているもの・こと」を大切にする営為で、「他者の生を支援する」ことだということです。
また、「大切にしているもの・こと」が大切にされなかったとき、大切にできなかったとき、人は「傷」つきますが、その「傷」を癒すことが介護ということになるのかもしれません。
(2)言語ゲームと介護・ケア
また、近内悠太さんは、言語ゲーム(language-game)という概念装置を用いて介護・ケアについて考察しています。
言語ゲームとは哲学者ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889~1951年)が提唱した、言語活動の本質を捉えた概念で、言語活動は、人々が発信した言語の意味を当て、人々に伝わるように言語を発信していくゲームだととらえる概念です。
言葉は最初から意味が定まっているものではなく、その言葉を使っていくうちに(言語ゲームをしているうちに)その意味が定まってくるもの、後になって遡及的にそのルールがわかってくるものなのです
恋愛という言語ゲームを例にとって近内悠太さんは恋愛のルール、規則が遡及的であること、そして、ケアとはルール・規則に則って行うものではなく、言語ゲームそのものを続けることそれ自体だとしています。
介護・ケアも恋愛と同様に、言語ゲーム開始時から明確なルール・規則があるものではありませんから、マニュアル化が非常に難しいのです。
恋愛マニュアルがあれば、上手く恋愛できると考える人は少ないでしょう。なのに介護・ケアではマニュアルがあれば上手く介護できると思われているようです。
もし、マニュアル化ができる介護があるとしたら、それは硬直したシステム化された介護ということなのでしょう。
(3)システム化された介護
マニュアル化、標準化が叫ばれている昨今、マニュアル化された介護、システム化された介護について今一度、真剣に考える必要があると思います。
近内悠太さんは、人間は不合理であるゆえに、個別の出来事、個別介護に対応したシステムは存在しないと次のように指摘しています。
私たちは、介護現場で「決まりですので」という台詞をどれほど聞かされているのでしょうか。またどれほど言っているのでしょうか。
そこには一人ひとりを大切にするという個別ケアの欠片もないということになるのでしょう。
私は、介護をシステムとしてではなく、ブリコラージュ(Bricolage:器用仕事)としてを捉えるべきだと思っています。ブリコラージュの可変性、即応性、臨機応変性は介護現場に相応しいものだと思うのです。
(4)「なぜ」を「いかに」で答える勘違い
近内悠太さんは河合隼雄(心理学者、1928年~2007年)さんの次の言葉を紹介しております。
「なぜ」という意味への問いを「いかに」という科学的・方法論的な問いへとすり替えてしまうということは介護の世界でもよくあることだと思います。
(5)介護と物語
介護・ケアは当事者の「大切にしているもの・こと」を共に大切にすることです。そして、介護・ケアは、当事者がその「大切にしているもの・こと」が大切にされなくて「傷」ついていることから始まります。
そして、介護・ケアはその「傷」を癒す行為なのです。
近内悠太さんはこの「傷」を癒すこと、つまり、その大切なものを回復することができるのは物語しかないとしています。近内悠太さんはフランツ・カフカ(Franz Kafka,小説家,1883~1924年)の次のようなエピソードを紹介しています。
公園で散歩中のカフカは、泣いている小さな女の子に出会い、「どうしたの?」と尋ねたところ、「お人形がなくなった」と答えました。カフカはすぐさま「君の人形は旅に出たんだよ。本当だよ、僕に手紙を送ってきたんだ」と即座に話し始めました。
女の子が「その手紙、持ってるの?」と尋ねると、カフカは「ごめんね、家に置いてきてしまった。でも、明日持ってくるね」と答え、家に帰って真剣に手紙を書き、翌日女の子に渡して読んであげました。
カフカはその後3週間にわたり、人形の冒険や成長、新しい知り合いについて手紙を書き続け、物語の結末について深く悩んだといいます。
結局、カフカは人形を出会った青年と結婚させることにしました。
カフカは、女の子が大切にしていた人形の喪失という無秩序を、物語を通じて再構築しました。彼は人形が失われたのではなく、女の子にとっては人形が旅に出たという物語を創り出すことで、秩序を取り戻したのです。
近内悠太さんは、人の傷を癒す物語の重要性を次のように記しています。
科学やテクノロジーでは救えない。これは、先に紹介しました河合隼雄さんの、結婚式を目前にして、婚約者が交通事故で死んでしまったひとの「なぜ」という問いに科学やテクノロジーが応えられないのと同じです。
(6)物語の書き換え
近内悠太さんは物語の書き換えとしての介護・ケアを次のように説明しています。
確かに、カフカのエピソードのように、この「だったことになる」とは出来事、物語の再解釈・訂正のことで、介護・ケアの重要な契機だと思います。
「私は家族に見捨てられ、こんな介護施設に捨てられた。」と傷ついている当事者(お年寄り)の物語を「あなたも家族も自分らしく生きられるためにこの施設に来た」という物語へ転換したり・・・
「私は、失禁してしまうような、ダメな人間になってしまった。」と嘆く当事者に対して「あなたはダメな人間ではないですよ。失禁しても失禁しなかったことにできますよ。」などの物語を紡ぎ出すのが介護・ケアということ、つまり、否定的な物語を肯定的な物語へと書き換えることが介護・ケアだと思うのです。
近内悠太さんは、このような事態を次のように説明しています。
介護・ケアとは当事者が「大切にしているもの・こと」を回復できるように、または、「大切にしているもの・こと」の喪失を受止められるように物語を書き換えること、訂正可能性に賭けること、といえるかもしれません。
東浩紀(批評家)さんは新たな連帯を基礎づけるのは哲学や思想ではなく、「あなたは苦しんでいますか」というより単純な身体的な問いだと指摘しています。
介護はまさしく、この「あなたは苦しんでいますか」、つまり「傷」にまつわる相互行為、営為であり、その振る舞いは特定の価値観を超えるものであり、現代社会の連帯の礎となる可能性があるのではないでしょうか。
「訂正可能性」の介護はシリーズとなっています。