意志・責任・帰責性とエビデンス主義ー意志決定批判 Ⅲ
5.「意志」概念にまとわりつく「責任」
(1)「意志」概念と帰責性
何かを「意志」決定し実行た場合、その行為が他者に迷惑などを掛けることとなれば責任が問われます。「意志」は責任を生み出す母でもあるのです。「意志」概念には「責任」がまとわりついているのです。
國分功一郎(哲学者)さんによると、英語には「責任」に該当する言葉が二つあるといいます。
一つはimputability(インピュタビリティ)でもう一つはresponsibility(レスポンシビリティ)です。
・imputability(インピュタビリティ)は「帰責性」と訳され、「罪や欠陥などをある人に帰属させる」ことを意味します。
・responsibility(レスポンシビリティ)はresponse(レスポンス)つまり応答に由来し、目の前の事態に自ら応答(response)するということです。
「帰責性」は法律の根幹をなす概念で、引き起こされた罪の帰属先を確定するものです。
「意志」概念に「責任」概念がまとわりついていると言った場合の「責任」は「帰責性」という意味です。
つまり、「意志」概念は「帰責性」を問う法的な概念なのです。
(参照:國分功一郎2021『「他利」とは何か』集英社新書p174~176及び國分功一郎2021千葉雅也・國分功一郎「言語が消滅する前に」幻冬舎新書p194)
國分功一郎さんは「意志」概念と「責任」概念との結びつきを次のように説明しています。
(2)意志決定支援と自己責任体制
なぜ、ケアマネジメントに「意志決定支援」、「意志」という概念を用いるのでしょうか。
それは、法的な権利主体として当事者を位置づけるとともに、その当事者の「責任」「帰責性」を問える体制、つまり自己責任体制を明確にしておく必要があるからでしょう。
当たり前のことなのですが、サービスを選ぶ権利があるのは当事者だけで、その選んだサービスが悪い場合でも、「そのサービスを選んだのは、あなたです」と言える仕組みが必要なのです。
そして、「お嫌でしたら別のサービス事業者にしましょうか」と、また新たな「意志」決定を迫り、「意志」の過去・しがらみ忘却機能で不愉快だったサービスを忘れさせる、そんな効用が「意志」決定にはあるのです。「意志」は過去志向ではなく未来志向なのですから。
(3)自立や「意志決定支援」は新自由主義的価値体系に親和的
また、「意志決定支援」は自民党政権が推進する個人の自己責任を重視する新自由主義との相性も非常に良いのです。新自由主義化が徹底された社会では、自由な「意志」決定ができ、自己「責任」を果たせる「自立」した人間像が推奨されています。
日本政府公認の介護の目的は「自立」ですが、この介護の目的も新自由主義的価値体系に親和的です。
「意志」「責任」「自立」を基本理念とする新自由主義体制下における社会保障の一翼を担う「意志決定支援」としてのケアマネジメントは、新自由主義的な理念を具現化するツール(tool:道具)に他なりません。
6.「帰責性」の過剰がもたらすエビデンス主義
(1)帰責性過剰の現代社会
現代社会では「帰責性」を意味する「インピュタビリティ(imputability)」が過剰に強調され過ぎていて、さまざまな事態にレスポンス(対応)できないでいると思います。
例えば、職場で何か問題があれば、その問題への対応を放っておいて、誰が悪いのかと責任追及(帰責性)するような雰囲気、組織風土になってしまっていませんでしょうか。
國分功一郎(哲学者)さんは次のように指摘しています。
現代社会は応答としての責任、つまり「レスポンシビリティ(responsibility)」ではなく、「帰責性」を問う責任(imputability)ばかりが強調される時代です。
この過剰な「帰責性」の背景、要因に「意志」概念があるのだと思います。「意志」決定は責任・「帰責性」を明確にする際に不可欠な法的概念だからです。
(2)責任回避手段としてのエビデンス主義
そして、この「意志」概念がもたらす「帰責性」の過剰、厳格化にともなって生じてきたのがエビデンス主義です。
しかも、このエビデンス主義は責任回避の手段となっていると千葉雅也(哲学者・小説家)さんは指摘しています。
さらに、國分功一郎さんも、「意志」概念がもたらした過大な責任を負わせる社会がエビデンス主義を招来させたとしています。
(3)エビデンス主義・科学的介護(LIFE)批判
介護の世界でもエビデンスに基づく介護が脚光を浴びています。エビデンスに基づく介護とはLIFE(Long-term care Information system For Evidence)に代表される科学的介護のことです。
エビデンスに基づく介護、科学的介護は2021年導入のLIFEにより介護報酬上の加算算定(科学的介護推進体制加算)と相まって介護現場を席巻しつつあります。
※ LIFE導入1年後の2022年4月LIFEのユーザー登録は、特養が9 割程、通所系が7 割程、特定施設は5 割程。
(参照:2022年4月「加算算定状況等調査 結果の概要」公益社団法人全国老人福祉施設協議会)
エビデンスに基づく介護は、まったく根拠のない介護よりは良いに決まっています。
しかし、良いことだけではなく問題もあるのです。
千葉雅也さんはエビデンスについて次のように指摘しています。
そもそも、エビデンスとは・・・
※パラメーター(parameter)変数または媒介変数のこと。物事の条件や基準を示す指標。
※メタファー(metaphor)隠喩 白い肌を「雪の肌」と言うなど。
さらに、國分功一郎さんも次のように指摘しています。
また、エビデンス主義とは科学主義の別名です。
木村文(社会学者:ハワイ大学マノア校社会学部教授)さんが指摘する科学主義の問題点はエビデンス主義にも言えるでしょう。
紹介した木村文さんの科学という言葉をエビデンスに置き換えると次のようになります。
「エビデンス主義は、本来、多層的であるはずの事象をエビデンスだけで解決できるかのように矮小化してしまうし、数値化やデータ化できない事象が周縁化されてしまう。」
(4)介護に効率性を求める新自由主義
新自由主義に染められた社会ではこのエビデンス主義は効率的なものとして歓迎されています。何故なら少ないパラメータで自動的に判断が可能となるからです。
介護の世界でもエビデンス主義(EBC:Evidence・Based・Care)に基づきLIFEを導入するのは、生産性向上、効率化のためです。
しかし、実際の介護では数値化できない事象、つまり、個々人のナラティブ(narrative物語)、経験、主観、感情、気分が大切なのです。
それをエビデンスという限られたパラメータ(parameters:変数)だけを参照項目として介護し、その介護の質を判定するのは、人間の矮小化、介護の矮小化だと思います。
千葉雅也さんの次の指摘も介護の世界にも当てはまることだと思います。
今後、介護現場ではLIFEにますます重きが置かれ、現場の介護記録などのデータをAIか解析し、フィードバックされた分析結果が介護の評価とされるようになるでしょう。
そして、現場へのフィードバックは問答無用のアドバイス、指示となり、個々の当事者の経験や物語、実存は無視され蔑ろにされるようになります。
AIは介護労働者の構想(精神労働)を取り上げてしまい、介護労働者はもう、考える必要はなくなります。AIの指示とおり働けばよいのです。
労働における構想の問題は以下のnoteをご参照願います。
そんな、一面的で軽薄な介護を日本式介護として胸を張る、恐ろしい近未来を想像してしまいます。
このまま行けば、近々、エビデンスに基づき介護計画(施設サービス計画)をAIに作ってもらうことになるでしょう。
繰り返しになりますが、エビデンスに基づいた科学的介護が悪いと言っているのではありません。
エビデンスだけに頼る介護は、障がい高齢者のほんの一面しか捉えられないので、薄っぺらく、当事者が疎んじられてしまうのではないのかと危惧しているのです。
意思決定批判シリーズ