進化するパノプティコンと脱パノプティコン -介護施設の課題Ⅰ-2
1.工場・学校・病院もパノプティコン
國分功一郎(哲学者・東京大学大学院総合文化研究科教授)さんは、フーコーの『監獄の誕生』を紐解き、規律的訓練が、監獄のみならず工場、学校、病院などで採用され、監視する行為によって人の行為を支配するようになってきたと指摘しています。
日本の学校でも規律訓練が徹底されています。日本の学校の校則はブラック校則ともいわれ不合理、不条理なものが多いようです。
髪は黒でなければダメ
下着は白でなければダメ
スカートの長さ規制
ポニーテールの結ぶ位置は耳より下でなければダメ
日焼け止め持ち込み禁止
冬でもストッキングやタイツ、マフラーなどで防寒対策をしてはいけない
体育や部活時に水を飲んではいけない 等々
おバカな校則が満載ですが、このような校則に唯々諾々と従順に従ってきた生徒は、不条理なルールを内面化しルールに従って行動することに慣れてしまっているため、自分で考えて行動することが不得意になるようです。
日本人は人格形成上重要な思春期に不条理なルールに隷属することで人格を整形し、不条理なルールに過剰適応するようになっていきます。日本は同調圧力が強い社会といわれていますが、この学校における規律訓練が成果?を挙げているからに違いないと思ってしまいます。
ですから、日本の大人とは、不条理な上司の指示やブラックルールを内面化しそのルールに自発的、積極的に従って行動することができる人間のことを指すようです。
日本人は世間体や周囲との協調を行動原理とすることから倫理が無い[1]と言えるのかもしれませんし、少なくとも近代的な個[2]ではないのかもしれません。
2.介護職員の規律訓練
大人になって介護施設に就職し、「トイレに行きたい」というような切実な訴えを無視する組織風土[3]に、最初は入居者が可哀そうだと思ったりもするでしょうが、そんな組織風土に同調し、自分も入居者の訴えを無視してしまう。そして、その状況に慣れていき、心を、倫理を無くしてしまう人もいるようです。
新入職員研修などでは、素晴らしい介護の理念、人権尊重が説かれるのですが、実際の介護現場でのOJT(On the Job Training)では新入職員を組織風土に馴化させ、いたわりの心を無くさせていく過程となっていることが多いのです。
新入職員も気づくのです。
「人権尊重とか一人一人を大切にするとかは建前なんだ。実際は、入居者の訴えに応答してたら業務を遂行できない。プロとしては入居者の訴えなんかは無視してでも、業務を効率的、迅速にやらなければならないってことだ。」
新入職員は上司、先輩、同僚を意識し、「規律訓練」によって、上司、先輩、同僚の眼差し(規律)を内面化し、「業務日課」至上主義のルールに従って自らの行為をパノプティコン的原理に隷属させてしまうのです。 介護職員もパノプティコンの囚われ人なのだと言えるようです。
経営者、施設長、管理者が介護施設はパノプティコン的情況になりやすいことに気づき、パノプティコン的情況の打破を目指さなければ、酷い、残酷な介護になってしまいます。
なによりも、業務の優先順位を入居者の訴えにシフトする[4]ことが重要なのだと思います。
3.進化するパノプティコン-監視からチェックへ-
國分功一郎さんによると、ドゥルーズ[5]は晩年、現代社会は「規律訓練型社会」から「コントロール社会」へと移行しつつあると指摘していたといいます。
そして、「コントロール」は「支配」ではなく「チェック」を意味するというのです。
これは、介護施設の日常ではないでしょうか。
人材不足に陥って業務に忙殺されている介護職員はもはや入居者を監視(見守り)する余裕さえありません。視線を入居者に向けることさえ、しません、できません。
定期的に入居者のバイタルチェック、食事量・水分摂取量のチェック、排尿・排便のチェック、体重チェックなどを基に介護行為を決めているのではないでしょうか。そして、視線を入居者に向けることさえしなくなれば職員にとって入居者は存在しないのも同じです。
パノプティコンとしての介護施設の完成形は、入居者とは無関係に介護職員が勤怠チェックや人事考課などによって定期的な業績チェックをされながら、決められた業務を淡々と遂行し、定期的に入居者の状態の数量的チェック(体温、血圧、呼吸数、摂食量、排泄量)して、お終い、という感じではないでしょうか?
このような、チェック型パノプティコンを駆動させるのはICT技術の進化と、職員の「自分だけ取り残されたくない」という同調欲求ではないでしょうか?
介護職員は同調圧力に晒され、思考を停止し、「業務日課」至上主義というイデオロギー[6](ideology)を信じ、自らは考えることをせず自由から逃走するという事態がチェック型パノプティコンを駆動させているのでしょう。
介護における関係の非対称性、パターナリズム(温情的庇護主義)、パノプティコン、「業務日課」至上主義等々の装置を脱構築[7]( deconstruction)しなければ、介護施設の悲惨な状況を改善することなど望めるわけがありません。
そのためには、役職員たちは、何が残酷で酷い介護なのか、ということについて考え、話し合うことから始める必要があると思います。
残酷性については次の拙文をご参照願います。
4.脱パノプティコン ~「まなざし」から「ふれあい」へ ~
視覚、「まなざし」を中心に据えた介護施設は、パノプティコン化しているといえるでしょう。パノプティコンは監視する権力装置です。
このパノプティコンから脱するには視覚、「まなざし」中心から、介護本来の触覚「さわる」「さわられる」へ転換することが肝心なのかもしれません。
そもそも、「まなざし」を介して介護を捉えるということは直接的には介護はしない生活相談員などの作法[8]だと思います。
「まなざし」を介した人間関係では相手、他者を対象化、客観化し、パノプティコン性を強める可能性があります。
眼差しについて以下の拙文をご参照願います。
堀越英美[9](フリーライター)さんは「まなざし」(視覚)を介した人間関係と「手」(触覚)を介した人間関係との違いを次のように指摘しています。
ここに登場するカケイさんとは『ミシンと金魚』(永井みみ/集英社)に登場する主人公で認知症の老女だといいます。
『他者と触れ合いたがらないか、いきなり胸をさわってくるような「じいさん」たち』という文章を読んで、自分のことかと思わず苦笑してしまいましたが、ようするに「まなざし」は他者を異化し対象化し、時には暴力化するが、手を介した他者関係は、混ざり合いと共感の可能性があるということなのでしょう。
「さわる」、「ふれる」という行為には「まなざし」よりも物理的に当然、距離が近くなります。介護では、移乗、移動、衣類の着脱、排泄、入浴等の介助の場面では入居者の身体に直接「さわる」、「ふれる」ことになります。この「さわる」「ふれる」ということを介した人間関係のあり方を紡ぎだすことができるのではないでしょうか。
伊藤亜紗(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)さんは「さわる」「ふれる」という触覚には他者の衝動や意志のようなものにふれることができると指摘しています。
アセスメント、モニタリング、見守りという「まなざし」、視覚をとおして当事者(入居者)を対象化、客観化、異化ばかりせずに、当事者に近寄り、さわり、ふれて当事者の衝動、意志を感じ取り信頼関係を築き共感していこうとする、そんな介護文化を育んでいくことが脱パノプティコンへの道なのではないでしょうか。
表現を替えれば、当事者(入居者)をさわり、入居者にふれるという介護の身体性を取り戻すとことが脱パノプティコンへの道なのだと思います。
[1] 自ら考えることをせずただ規則に従って行動する者、葛藤のない者には倫理観は無い。
[2] ここでいう「近代的な個」とは自己決定によって行動を律し、個人的選択による活動を行う人間のこと。
[3] 「組織風土」とは、組織を構成するメンバーの間で明確化され、共通認識となっている独自の価値観やルール、考え方。
[4] シフト(shift)するとは、入れ替える、変更するという意味。
[5] ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年~1995年)は、フランスの哲学者。パリ第8大学で哲学の教授を務めた。20世紀のフランス現代哲学を代表する。
[6] イデオロギー(ideology;観念形態)とは行動を左右する根本的な物の考え方
[7] 脱構築(deconstruction)とは、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成すること。
[8] 作法とは人間生活における対人的な言語動作の方式。
[9] 堀越秀美(1973~)フリーライター。著書に『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』・『モヤモヤする女の子のための読書案内』(河出書房新社)、『スゴ母列伝』(大和書房)、訳書に『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界』(河出書房新社)、『ギタンジャリ・ラオ STEMで未来は変えられる』(くもん出版)、『ガール・コード』(Pヴァイン)など。