泳ぐことについて語るときに私の語ること
その日、ウサギは透明なバッグを片手に、肌寒さをまとったプールサイドを静かに歩き始めた。ザラザラとした足裏の感触が、ふと昔の記憶を呼び覚ましていく。
見慣れているはずの景色が、どこかよそよそしい。まるで遠い昔の夢の中を、ひとりで歩いているような気がしていた。
「パンデミックだから」と、期限切れの言い訳を抱えたまま、なんとなくプールから遠ざかっていた。今日ここに来たのも、ほんの小さな奇跡が、そっと背中を押してくれたにすぎない。
去年のクリスマス、昔のスイム仲間からフルーツケーキが届いた。添えられた「元気で泳いでね」という短いメッセージが、いまだに彼女の心の奥を揺らしていた。
「まだ泳げるかな...」そんな思いを抱えたまま、ウサギはプールの壁を蹴った。ゆっくりと浮かび上がる感覚が、不思議な安らぎを運んでくれる。
腕に頼った泳ぎ方は、以前と何も変わっていない。でも、水が上手く掴めない。水が手のひらをすり抜けるたび、思わず苦笑いがこぼれる。それでも、その感覚を楽しむかのように、ゆっくりと水中を進んでいく。
50メートルを何本か泳いだところで、プールサイドに上がる。「腕がパンパンね」とひとりごちて、軽く両腕を振る。長いブルーのベンチに向かいながら、深く息を吐いた。
トライアスロンをきっかけに、いつの間にか泳ぐことになっていたあの日々。気づけば、泳ぐことが当たり前になっていた。
海の中を泳いでいると、そこは水の音だけが支配する世界だ。深い青に抱かれて浮かんでいると、いつの間にか宇宙に迷い込んだような気分になる。
透き通った水を通して海底を見下ろすと、サンゴ礁の間を泳ぐのは熱帯魚だけではなかった。ウミヘビやマンタも、自然とその景色に溶け込んでいる。彼らと同じ世界にいることが、どこか誇らしく思えていた。
「あの海ともう一度出会えるかしら...」
そんな想いを抱きながら、ウサギはもう一度、静かにプールへ足を踏み入れた。
壁を蹴り、そっと腕を滑らせるように回し始める。その動きは時計の針のように規則正しく、止まることなく続いていく。時の流れに乗るように、彼女の気持ちもまた、そっと進み始めた。