「体罰」とは何か
「「まさに昭和の亡霊って感じ」戸塚ヨットスクール設立者「体罰は善」主張に批判続出」
(女性自身)
当ブログは体罰を肯定し、体罰と暴力を同列に扱う考え方を全否定するブログである。
よって、バカメディアが体罰を否定するならば、当ブログとして黙っている訳にはいかない。取り敢えず、体罰とはどういったものかを列挙してみよう。
1.道徳
あらゆる教育方法の中で最も道徳的な手段、それが「体罰」である。
言い換えると、「体罰」を身に付けておらぬ者、「体罰」を正しく行使出来ぬ者は、その他の能力が如何に教育者として秀でていようが、真の教育者足り得ないという事である。
2.文明
あらゆる教育方法の中で最も文明的な手段、それが「体罰」である。
体罰防止法なる悪法がものされて久しいが、これの撤廃が急務である事を理解せぬ者は、文明を理解せぬ土人である。
3.倫理
あらゆる教育方法の中で最も倫理的な手段、それが「体罰」である。
もしも「体罰」を暴力と同列に騙る者が居るならば、其奴は人の道を外れた鬼畜外道である。「体罰」の肯定は人が正しく人として在る為の第一歩と言えよう。
4.愛
「体罰」とは、無謬の愛を以って行使されるものである。愛無き「体罰」は「体罰」足り得ない。
言い換えれば、必要な場面で我が子に「体罰」を行使出来ない親は、本人の自覚有無に依らず、その子を真に愛してはいないという事である。
5.言葉
「体罰」とは、言葉によって成す事の出来ぬものである。読んで字の如く、身体に罰を与えてこそ「体罰」足り得る。
この世には、理屈や合理性を超えた絶対遵守の命令というものが存在する。それを理解せぬ者に言葉は不要という事である。
6.有効性
「体罰」とは、この世で最も有効な教育方法である。人類の叡智と言って良かろう。
言葉を解せぬ者に唯一有効なのは、身体的苦痛である。嫌われようが、憎まれようが、恨まれようが、智を与える。「体罰」を行使する者の覚悟である。
ざっと書いてみたが、これ等は事実である。事実である以上、受け入れる以外の選択肢は存在せず、受け入れなければ産まれるのは軋轢と弊害のみである。
何だか、年を追うごとに体罰を否定する愚か者が増殖している気がするが、恐らく気の所為ではないだろう。民族滅亡を心配せねばならぬ程の少子化に歯止めが掛かる気配も無い事などから、間違い無いと思われる。
何故に体罰は必要なのか。
それは先ず第一に、道徳を身に付けさせる為である。
道徳無き社会に自由は無く、自由無き社会に幸福は有り得ない。「私は不幸な方が良い」などと本気で思う人がいるだろうか。ゼロではないだろうが、精神を病んでいるとか、相当に特殊なケースであろう。
極論、体罰を否定する社会において人は幸福になれないという事である。
それでは、日本は体罰が法律で禁止されているが、それでも幸福な人は沢山いる。これをどう説明するか。
体罰が禁じられたからといって、その瞬間に社会が完全崩壊する訳ではない。それまでに培われた道徳はまだ残っている。親に殴られた事は無くとも、道徳を理解している人というのも沢山いる。日本にまだまだ幸福な人が多く存在するのは、体罰によって道徳の継承が高度に成されていた時代の影響が残っているからである。
道徳が自由の根源というのは何なのか。周囲の者全てが道徳を捨てても、自分一人だけが道徳を身に付けておれば自分だけは自由なのか。
そうではない。
一例として述べるが、道徳を持たぬ者が増えれば増える程、事細かな法や規制が必要になる。それらを維持するのはタダではない。政府機能が肥大化し、増税を招く。
生産性も低下する。付加価値を産み出すよりも、法や規制への対応に労力を割かれるのだから当然である。(※補足①)
事細かな法や規制に上手く対応し、時には金の力を使って擦り抜けられるのは、財力のある者だけである。少数の天才を抱える十何人しか居ない弱小企業よりも、政府に対するロビー活動を展開でき、法務部なる部署まで有する大企業が圧倒的に有利という事である。
法や規制が増えれば増える程、政府機能が肥大化すればする程、個人の努力や才能が及ぶ領域は狭くなる。大きな集団に庇護されるしかなくなる。結果、安月給でも文句が言えなくなる。
逆説的だが、法や規制が増えれば増える程、その社会は無法地帯になるという事である。
もう一つ例を挙げると、公的社会保障である。
道徳が失われれば失われる程、人は他力本願になり自助努力を忘れる。その内に自分のやっている事が他力本願の権化である事すら気が付かなくなる。
ある高齢の方が言った。「病院や医者は汚い」と。「ヤツ等は儲ける事しか考えておらず、患者を騙す機会を虎視眈々と窺っている」と。その方が言うには、「だから自分は複数の病院に行く。医者が本当の事を言う筈は無いので、他の病院に行った事を隠して複数の病院で診察を受ける」らしい。
まぁ、複数の病院で診察を受けるのは好きにやってもらえれば良いとして、何故そんな事が出来るのかと言うと、高齢者の医療負担が本来価格の90%OFFだからである。そして、それを支えているのは現役世帯(何なら自分の行動を得意気に話している目の前の相手、詰まり私)である事を忘れている。
ある種の医療従事者が腐っていて、その方の言う「汚い存在」と化しているのは事実である。何故それで医者などやっていけるのかと言うと、国民(強制)健康保険制度が生み出した弊害である。
この制度の所為で、医療サービスの価格は常時70%OFFのバーゲンセール状態。条件が変われば前述の通り90%OFFである。だが、それは病院側の創意工夫によって成せたものでは無く、カットした分は健康保険組合から支払われる。その原資は国民が納める保険料や税金である。
この保険は幾ら活用しても、自身の保険料だけがその分上がるという事が無い。だから、人は大した症状でなくとも病院に行く。そして、行った先は自らの企業努力とは無関係に、制度によって保護されたバーゲンセールに胡座を描く様な病院である。
自助努力というのは道徳の一貫であるが、医療・健康にもそれは当て嵌まる。先に述べた様な、90%OFFなのを良い事に幾つも病院をハシゴする行為を言っているのでは無い。普段から健康に気を配る、自身の状態が正常なのか異常なのかを先ずは自分で判断する、という事である。
ここでは医療を挙げたが、道徳が失われた社会において求められるのが「政府の補助」である。自助努力の何たるかも知らぬ不道徳者が、「政府が責任を持て!」「政府がカネを出せ!」などと叫ぶ。結果、国民(強制)健康保険の様な“持続可能性の無い”制度が出来、国民に不利益を齎す。
道徳を端的に言語化したものがこの世には存在する。ユダヤ・キリスト教における十戒はその一つである。
では、我々日本人にとっての十戒に当たるものとは何か。当ブログでは教育勅語に書かれた「十二の徳目」を挙げたい。
一.孝行
親に孝養をつくしましょう
二.友愛
兄弟・姉妹は仲良くしましょう
三.夫婦ノ和
夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
四.朋友ノ信
友だちはお互いに信じあって付き合いましょう
五.謙遜
自分の言動をつつしみましょう
六.博愛
広く全ての人に愛の手をさしのべましょう
七.修学習業
勉学に励み職業を身につけましょう
八.智能啓発
知識を養い才能を伸ばしましょう
九.徳器成就
人格の向上につとめましょう
十.公益世務
広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう
十一.遵法
法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう
十二.義勇
正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう
これ等は絶対遵守の命令である。異論を挟む余地など無く、逆らえば罰が下るという事である。
べつに裁判で有罪判決を受けて刑務所に入れられるとか、そういう下世話なハナシではない。個人がこれ等を守らなければ働き口を失うといった憂き目に遭う。少数が徒党を組んで逆らったら社会的に制裁を受ける。大多数が逆らい出したらどうなるか。それは、正に今の日本の如くである。
企業は付加価値の創造よりもSDGsの様な共産主義思想に邁進し、実質賃金が上がらない。
増え続ける社会保障費を補填する為と称して政府から収奪され、可処分所得を減らされる。
支那やロシアや北朝鮮の様な極悪国家から、主権も領土も国民も守れない。
日本人絶滅すら危惧しなければならない程の“少子化”に悩まされる。
要するに、全ての日本人が罰を受けるという事であり、次代の日本人に対して自分達が味わう以上の罰を押し付けるという事である。
それを良しとしないのならば、我々日本人は自分だけでは無しに、民族全体として道徳を身に付け、継承せねばならない。
体罰とは、上述した様な「罰」の擬似体験である。道徳に逆らえば罰を受けるという道理を、文字通り「体に叩き込む」という事である。
体罰は幼少期にこそ積極的に用いるべきである。小賢しく卑怯な浅知恵に触れる前に、体罰を行使してでも道徳を身に付けさせねばならない。叱る行為を全て体罰に置き換えよという意味では無い。人格を形成する過程において、その子のルーツに道徳を刻み込むべしという事であり、それには体罰の行使も辞さない覚悟が求められるという事である。
「Save the Children」という団体が存在する。左翼活動家、エグランタイン・ジェブが起源となった団体であるが、日本にも「セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン」として1986年に流入してきた。
ヤツ等が行なっているのは、正に日本が日本として存続する為の礎を破壊する行為に他ならない。「緑の党 グリーンズジャパン」と合わせてテロ組織に指定した方が良い。日本赤軍とかと同レベルの扱いをせよという事である。
戸塚ヨットスクール校長・戸塚宏氏は、体罰を「進歩を目的とした有形力の行使」と定義する。見事に本質を捉えた表現だと言えよう。
一方でテロリストは言う。「躾とはお互いの理解、尊重、忍耐、効果的な相互のコミュニケーションから成り立つものだ」と。この様な言い分はちゃんちゃらおかしいと切って捨てなければならない。教育とは、時に理屈を超えた絶対遵守の命令をも叩き込まねばならない場合がある。素直に誓うなら良し。そうで無く、理解しようとしない、小賢しく言い訳する、遵守すると嘘を吐いて実際は守らない。この様な状況において、チマチマと言葉を弄している場合では無い。
教育において言葉が有効なのは、相手にその言葉を正しく理解するだけの下地が整っていた場合である。盗みは駄目と説くとして、道徳を身に付けておらぬ者に理由を説いても無駄である。精々、「バレたら捕まるから」といった勘違いで終わるのが関の山である。
道徳を蹴っ飛ばして個人の“権利”だか何だかを叫ぶ者に、言葉など何の役にも立たない。幼児にとって、手の甲を軽く叩くだけでも体罰として機能する。小学校も高学年になったら、強打はしないにしても脳天に拳骨くらいは必要になる。中学高校まで図体がデカくなったら、渾身の右フックを顔面に叩き込むくらいの処置が必要になり得る。
人間には絶対遵守の命令というものが存在する。体罰失くしてこれを継承する事は出来ない。体罰防止法は何としても撤廃すべき悪法である。是が非でも成さねばならない。
※補足①:コンサルタントなど
新たに出来た法や規制への対応を企業に指導するコンサル会社。例えばこういうのは割と少数精鋭であり、いわゆる大企業ではない場合が多い。
「法や規制が生産性の低下を招くというのは間違った認識だ。上手くビジネスチャンスを見出している者がいる。法や規制も経済成長の基点に成り得る」
これは愚か者の考え方である。経済の「け」の字も理解していない。無知蒙昧である。
法や規制への対応で何かしらの付加価値が生まれるか? 生まれない。なんだか“生まれる体になって”いるが、生まれないのである。
例えば、パワハラ防止だ何だの企業への講演や指導にカネを払う行為。これは、穴を掘ってその穴を埋戻す、それを延々繰り返す行為にカネを払うのと同義である。企業がその様に余計な出費を重ねれば、穴掘り穴埋め作業の従事者は給料を貰えても、その企業が創造する付加価値には全く寄与しない。寧ろ、無駄な出費が発生している以上、生まれるのは弊害のみである。