駐日イスラエル大使 ギラッド・コーヘン氏に弁明する
「イスラエル駐日大使「80年前の日本との比較は不適切」…平和賞の被団協代表委員発言を批判」
(読売新聞)
2024年のノーベル平和賞を、日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)が受賞した。
この際、箕牧智之代表委員がイスラエル及びユダヤ人に差別的な発言をし、ギラッド・コーヘン駐日イスラエル大使がXに批判の談話を投稿し、被団協も日本政府も知らん振りをしている。
コーヘン氏の怒りは正当なものであるが、被団協がこの手の間違いを認める事は絶対にしないので、放っておけばこのままである。それとは別に、日本側からイスラエル側に対して遺憾の意を表明すべき事案が放置されたままであり、これも問題である。
この様な状況を鑑み、僭越ながら当ブログから談話を出した。
私の様な、何処の馬の骨とも分からぬ者が何をかほざいてどうなる訳でも無いが、何もしないよりは良い筈である。
以下、コーヘン氏のポストに対する返信としてXに投稿した全文を引用する。
談話というよりも言いたい事を言っただけという様な内容だが、所詮は文字数に限りのある X への投稿である。内容そのものに間違っている部分は無く、コーヘン氏の心情を慮ってもいる。
また、本名を伏せての投稿であるから、相手から何がしかの反応を期待するものでもなく、故に謝り倒す様な文面にするのもおかしい。
従って、何の問題も無い筈である。
①ハマスのイスラエルに対して抱く害意には一片の正しさも無い。
②ハマスはガザの一般市民の命を盾にしている。
③イスラエル政府の義務はイスラエル国民を守ること。
以上の3点をもって、イスラエルがガザを攻撃する事の正当性に疑う余地は無い。イスラエル政府はイスラエル国民を守る義務を負う一方で、ガザ地区の一般市民を守る義務を負ってはいない。その義務を負うのはハマスである。
にも関わらず、ガザの現状をイスラエルの責任として批判する行為は、善悪を逆しまに騙る愚行である。
箕牧氏は恐らく「パレスチナ難民問題は全てアラブ諸国の所為であり、イスラエルには何の責任も無い」という事実を知らない。尤も、これは箕牧氏に限らず殆どの日本人に当て嵌まることである。
我々日本人は子供の頃から学校で間違った歴史を教えられる。中東の歴史も例外では無い。
2023年10月11日、TBSは重信メイを出演させ、反イスラエル且つ親テロリスト的な発言を許可し、これを報道した。日本人はこの様な反イスラエルプロパガンダの中で生活していると言って過言ではなかろう。
トランプ政権下の米国は、大使館をエルサレムに移設するという決断をし、実行に移した。有史以来エルサレムを首都とした独立国家はイスラエルを置いて他に無い。トランプ政権の決断は賞賛すべきことであるが、ある意味では当然のこととも言える。
本来であれば、日本政府もトランプ政権の判断に追従する形で大使館をエルサレムに移設し、返す刀でパレスチナ国の承認を破棄しなければならない。そして、我々日本国民はその様な決断の出来る人物を政府の要職に押し上げねばならない。
ノーベル平和賞なんぞを貰ってはしゃいでいる場合では無いのである。
コーヘン氏は箕牧氏に苦言を呈するに当たって一応の祝辞を述べられたが、ノーベル平和賞というのは過去に何度もユダヤ人差別主義者に与えられてきた経緯がある。忸怩たる思いだったであろう事も、我々は理解しなければならない。
さて、私からコーヘン氏に表明した遺憾の意についてである。
2024年7月24日、ネタニヤフ首相は都合4度目となる米議会演説の中で、「ハマスによる襲撃を受けた2023年10月7日は、1941年12月7日(真珠湾攻撃)や2001年9月11日(米国同時多発テロ)と同様に、不名誉として永遠に語り継がれるだろう」と述べた。
全体としては素晴らしい演説であり、99%は同意出来るものであったが、真珠湾攻撃をイスラム過激派テロと同一視する発言は、日本人として到底受け入れられないものである。
当時の米国はソ連のスパイが政府中枢まで潜り込んでいた。これは米国側の資料からも明らかな事実である。
共産主義に侵食され、スターリンの傀儡と化したルーズベルト政権は、アジア各国で共産主義と戦っていた日本への石油供給を断ち、日本側の大幅な譲歩を突っぱね、開戦に追い込んだ。(※補足①)
我々日本人にとっての真珠湾攻撃とは、その様な状況であっても独立国家としての気概を失わず、共産主義に屈しないという覚悟の証明である。
当時の米国は日本の暗号を解読する事に成功しており、12月4日の時点で日本が真珠湾を奇襲する事を知っていた。ルーズベルト政権にとっての「真珠湾攻撃」は、不名誉ではなくて戦略だったのである。
とは言え、本当に遺憾なのは我々日本人の態度である。
真珠湾攻撃をテロと同列に扱われた事に対し、抗議すべきと感じる日本人が殆どいない。イスラエルに例えるならば、「イスラエルがパレスチナを占領した」という嘘を、イスラエル国民の大多数が信じている様なものである。
国民の大半が自国の正しさを理解し正義の戦いを遂行するイスラエルこそ、日本が目指すべき国の在り方ではないか。
被団協のノーベル平和賞受賞を、大手メディアは一様に「喜ばしい事だ」と報じた。
ここで我々はある知識を活用せねばならない。「日本の左翼メディア各社が論調を同じくする時、実はその真逆が正しい」という知識である。
大前提として、反核というのは現代社会において国家反逆と同義である。被団協に集い活動する方々の多くは本質的に善良な人々なのだと思うが、人は誰しも両親の手を離れて一人立ちすれば、その発言や行動には責任が付いて回る。例え左翼のプロパガンダに騙されているだけだとしても、悪いものは悪いという事である。
核無き世界とは具体的にどの様なものか。
それは、人と人がお互いの顔を視認出来る距離で、銃器や刃物や爆弾で殺し合う世界である。
“核有り”の現状でもその様な戦闘は行われているが、それが爆発的に増えるという事である。支那やロシアや北朝鮮、イスラム原理主義諸国といった、国民の生命を消耗品と定義する国家にとって、核無き世界は有利に働く。
これ等の国々も核を保有、或いは保有しようとしているが、何故に自分達が有利になる筈の「核無き世界」を積極的に訴えないのかと言うと、道徳や倫理の観点から、敵側が手放す筈は無いという事を理解しているからである。
因みに、敵国内ではガンガン反核を煽り倒す。何故そうするかは考えるまでも無かろう。
ガザ地区の民間人を殺しているのはハマスである。
これは「事実」である。事実というのは受け入れる以外に選択肢は存在せず、無理に逆らえば生まれるのは軋轢と弊害のみである。
イスラエルについてネット検索すると、この様な情報がヒットする。
PCやスマホを始めとした多くの先進技術はイスラエルと密接な繋がりがある。これらの恩恵に預かっている国は世界中におり、当然ながら日本も含まれる。
米国では大統領選が大詰めを迎えており、どうにか事なきを得そうだが、まかり間違ってハリスが勝とうものなら、今後の4年間もイスラエルは孤立無援の戦いを強いられる。
国連を含む反イスラエル主義者や親パレスチナ主義者の論理は、「イスラエルは侵略者なのだから、お前らが停戦しろ」というものだが、歴史的な事実として、侵略を受けて実際に領土を奪われているのはイスラエルの方である。ヤツ等の言う「停戦」はイスラエルにとっての「敗戦」に等しい。
しかも、敗戦する相手はテロリストである。中東唯一の自由世界たるイスラエルがテロに屈するという構図である。
テロに屈した国家が自由闊達な経済活動を維持出来る筈は無く、孤立無援のまま戦い続ける以上に経済へのダメージは深刻なものになる。そうすると、イスラエルに(知らないだけで)頼る各国にも深刻な影響が及ぶ。イスラエルバッシングなどしている場合では無い。
自由闊達な経済活動を促す上で、国防は最重要事項である。常に敵国やテロリストの恐怖に怯やかされる様では話にならないし、もっと言うと単に国境を守る事だけが国防では無い。
「ユダヤ人なら殺しても大丈夫」と言わんばかりにホロコーストを実施するとか、「日本国籍の者は殺しても大丈夫」という事で反日プロパガンダを展開して憎悪を煽って殺人を誘発させるとか、そういう事をさせないのも国防である。
イスラエルという国は今の日本が学ぶべきものを全て持っている。いつまでもこの様な人種差別主義者に騙されている場合ではない。
※補足①:真珠湾攻撃
真珠湾攻撃は日本にとって栄光の記憶である。
当時、日本は現在の志那や東南アジア各国で共産主義と戦っていたが、米国はABCD包囲網によってそれを止めさせようとした。この包囲網によって鉄や石油が得られなくなった日本は、それでも対米戦争を避けるべく粘り強く交渉を続けた。
「日独伊三国同盟があろうとも、ドイツやイタリアが米国との戦争に至った場合でも日本は参戦を控える可能性がある。」「石油の輸出を再開するなら、日本はベトナム南部から撤退する用意がある。」「志那からは共産化を阻止するに必要最小限の駐屯を継続するのみで、2年以内に撤退する用意がある。」
これらの譲歩を一蹴し、志那や東南アジアからの完全撤退を要求した文書がハル・ノートである。
ここに至って日本は正義の為に戦い続ける事を決意。開戦に踏み切った訳である
因みに、ハル・ノートを作成したハリー・デクスター・ホワイトは米国政府中枢に侵入していたソ連のスパイの一人であり、1948年にその事実を暴かれて自殺している。
※補足②:ガザのジェノサイドと南京大虐殺
ガザでの出来事をイスラエルによるジェノサイド扱いする論法は、南京大虐殺という名のフィクションをこしらえたものと同じであろう。
民間人に紛れ、民間人を盾にし、或いは民間人のフリをして敵を攻撃する。その様な敵と戦うに当り、敵側の民間人を殺害してしまうのは致し方ないというものである。寧ろ、民間人と戦闘員を区別せず無差別に殺害するよう徹底しなければならない。