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仮面と光源。三島由紀夫の最良の読者は、デヴィッド・ボウイだった。

スターとは仮面をつけ、大衆を魅了し、かれら彼女らに愛される存在を演じ続ける存在のことである。すなわち、厖大な人びとの欲望の対象になることである。誰がそんな厄介な役を引き受けたいだろう? ちょっとした名誉欲なんてものとは桁が違う。小説家でスター願望を持った存在は誰がいるだろう? サルトル? ノーマン・メイラー? カポーティ? ヘミングウェイ? 小説は書かなかったけれど、フーコー? いいえ、この件について誰も三島由紀夫には勝てない。しいて三島に似ているスター芸術家を探すならば、サルヴァドール・ダリくらいだろうか。



では、なぜ三島はスターになることを選び、スターになりおおせ、スターとして生きなければならなかったか。その理由は『仮面の告白』を読めばよくわかる。三島は専業職業作家になることを決意したときから、仮面をつけることなくしてなにひとつ書けないことをさとったからである。逆に言えば、少年時代の三島は自己嫌悪の塊だったものの、しかしボディビルをやりはじめてからはいっけんナルシシズムの権化のように見えたものだし、かつまたじっさいそうだった。しかしながら、三島その人は感じやすく繊細で傷つきやすい、抗いがたく死に憧れるロマン派の少年詩人である。そんな人が、大衆社会ー好奇心まんまんで飽きっぽく、つねに無責任に言いたい放題好き勝手なことを言う、そんな俗物ばかりのー世間で、仮面をつけることなくして、生きられるわけがない。もちろん仮面をつけただけでスターになれるわけではない。人びとの欲望を喚起する光源が必用なのだ。それは美であり、冨、名声そのほか、けっしてたやすくは手に入らないなにかである。



三島由紀夫に『スタア』(1960)という短篇がある。(短篇集『殉教』新潮文庫に収められています。)おりしも三島が映画『からっ風野郎』に出演した直後の作品である。三島はすでに戦後の空虚を主題に4人の青年たちの情熱と挫折を描いた意欲作『鏡子の家』(1958)を書き、しかし酷評にさらされ、失意に陥っています。『スタア』はざっとこんな物語です。




「僕」水野豊は24歳、すでに大人気の映画スターである。「僕」は夢を見ない、なぜなら夢を見るのは「本当の世界=世間」の人たちの特権で、「僕」はそちらの世界とはとっくに手を切った。かれロケ現場にはつねにファンが詰めかける。「僕」は彼女たちを「醜いジャガイモ娘」たちとして冷ややかに見ている。




付き人の加代は30歳だが、前歯に二本の銀歯が並び、40歳ほどに見える。しかし彼女は「僕」が監督から叱責されたときに、「僕」を慰め、「僕の性的飢渇」を救ってくれた存在である。加代はひそかに人の悪いよろこびを感じていた、「世の女という女がみんな僕に憧れていることを前提にして、加代が僕を独占している」ことに対して。



この物語は映画撮影現場を舞台にしていて、細切れな場面撮影の進行に沿って進んでゆく。物語の中盤で、さる若い大部屋女優が「僕」に突然抱き着いたところから物語はおもいがけない展開を迎える。そしてひとしきりの意表を突いた展開を経て、最後は「僕」が先輩大物俳優、スター中のスターの素顔に老残を見て、「僕」がそれを恐怖することで物語は終わる。すなわちスターという虚構を演じる自分に満足しきっていた「僕」は、自分自身の昏く不吉な未来にただひたすら怯えるのだった。この短篇の翌年書かれたのが『憂国』であることをおもえば、この時期すでに三島の人生が不穏な方向に傾斜していることに気づく。また、この作品の〈見る者/見られる者〉の主題に着目すれば、1965年に書かれる三島のエッセイ『太陽と鉄』につながるところもある。いずれにせよ、まだ三島の人生はあと十年残されているのだけれど。



ジギー・スターダスト時代の
デヴィッド・ボウイ




デヴィッド・ボウイは生涯三島由紀夫を愛読し、三島の存在とその人生の寓話から逃れることができなかった。なるほどかれは(いささかオーヴァー・プロデュースされただろうところの)『ジギー・スターダスト』で、架空のロック・スター、ジギーを演じることでひとつのロック・オペラを作り上げ、熱狂を博し、70年代を代表するロック・スターになった。『ジギー・スターダスト』以降ボウイはスターを演じ、プレスとも世間とも楽し気にダンスを踊った。しかし、蜜月は長くは続かず、ボウイはドラッグに溺れ、ベルリンに逃げ込んだときにはすでにボウイの心身はぼろぼろだった。この時期ボウイは三島の巨大な肖像画を描き、壁に架け、毎晩ボウイは三島の肖像画の下で眠った。










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