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金閣寺 vs おっぱい。三島由紀夫はなぜ『金閣寺』を書いたのか?

なぜ三島は31歳で、〈美〉の観念を主題にした『金閣寺』(1956)を書いただろう? この作品は1950 年 7 月 2 日に僧侶であり当時大谷大学の学生でもあった林養賢の放火によって焼失した事件をもとにして、1956年三島の手によって書かれています。ただし、実際の事件は素材に過ぎず、仕上がった小説はいかにも三島らしい美についての思弁小説に仕上がっています。



しかしながら、不思議なことに、この小説には〈金閣寺 VS 性欲〉というサブプロットが埋め込まれています。若く童貞の僧侶・溝口にとって、修行の邪魔をするのが女の肉体であり、その煩悩であるとでもいうように。いいえ、女の煩悩にとりつかれているのは溝口だけではなく、老師もまた同様です。そういう意味では、聖なるものと俗なるものの葛藤が描かれているとも言えましょう。いいえ、順を追って具体的にお話ししましょう。



『金閣寺』もまた、表からも裏からも読むことができる。表から読めば、ざっとこんな物語である。主人公は若いどもりの禅僧・溝口であり、かれは田舎の寺の住職の息子。溝口はどもりゆえ、世間とうまく折り合いがつかない。溝口は父に〈金閣寺ほど美しいものはこの地上にない〉と洗脳されて育った。しかし、現実の金閣寺を見た瞬間、溝口は落胆する、「古い黒ずんだ、ちっぽけな三階建てにすぎなかった。」また、溝口の父も死んで、かれの少年時代も終わる。溝口は金閣寺の徒弟となる。溝口はつぶやく、「金閣よ、やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ。」なんだかんだ言いながらも、溝口の心はいまだ金閣寺に支配されているのだ。溝口は金閣寺の住職になる決意なのである。



大東亜戦争が激化して、金閣寺とて燃え落される可能性が生れてくると、溝口は空襲への期待によって(!)がぜん金閣寺を身近に感じ、金閣の美に溺れてゆく。ところが金閣寺は燃え落ちることもなくあっけらかんと生き残った。溝口は金閣寺と自分の関係が絶たれたと感じる。溝口は「いつかおまえを支配してやる」と決意する。ここで言う〈おまえ〉とは美の観念のことである。こうして溝口は金閣寺に火をつける。



他方、この小説を裏から読めば、〈金閣寺 VS 性欲〉というへんてこりんな主題が現れる。この小説のなかには溝口が女に欲情する場面が、数々散りばめられている。またこの小説には、金閣寺の老師が女遊びをし尽くした人物だったとの記述もある。金閣寺をおとずれたアメリカ兵にそそのかされて、溝口が雪のなかに倒れ込んだ女の腹を(流産目的で)踏まされたりするエピソードさえも挟み込まれている。このとき溝口ははじめて悪に加担した。なお、この事件は後に関係者からの告発で金閣寺内で問題になるのだが、さいわい犯人が溝口であることの目撃者はいなかった。



しかも溝口は下宿の娘を連れだしてデートに持ち込んで、興奮の高まりのなかにあるのだけれど、しかし、今度は「目の前の娘を、欲望の対象と考えることから遁れようと」するのである。まるで金閣寺が溝口の性欲の満足を邪魔するように。読者はみんな呆れるでしょう、このいくじなし! また、溝口のなかの〈金閣寺〉っていったいどんな化け物なんだ!??



そんなわけで、ぼくは『金閣寺』をいかにも三島らしいとおもい、たいへんおもしろく、かつまた優れた近代小説のひとつだとおもいながらも、ただし、三島は法学部出身だというのに、犯罪小説でありながら善/悪の問題がまったく無視されているのはなぜだろう? しかも、なぜ前述のような奇矯なサブプロット(金閣寺 VS 性欲)が介入してくるのか? いくら犯人の禅僧が若く童貞で性欲に悶々としていただろうにせよ、しかし小説の骨法としてぼくにはそれがわからない。そもそも美と性欲は別の審級に属している。しかし、三島にとっては美はエロスと結びつき、サディズムの対象でもあるのだ。



とは言え、われわれ読者はすでに知っている。三島は29歳でめでたく童貞を捨て、若い恋人・貞子さんと毎晩のように逢瀬を重ね得意満面、幸福の絶頂なのである。ところがそんな三島は、どこかで〈女〉に自分が飲み込まれてしまうことを、ひどく怖れてもいるのである。すなわち、三島にとって金閣寺とは〈女〉のまたの名だったのである。金閣寺もびっくりである。



なお、この小説『金閣寺』の最後の一行は、犯罪者・溝口が金閣寺を燃やした後につぶやく言葉、「生きようと私は思った」である。ここにはこれから溝口が生きるのは監獄のなかであるというアイロニーが含まれている。



ろ同時に、この「生きようとおもった」は、三島は祖母に、母に、父にさんざん抑圧されて育ったトラウマから解放されて、これからは行動する人として生きようという決意でもある。つまり三島にとって『金閣寺』は、象徴的親殺しでもあったのだ。付言するならば、三島は(男色経験は別として、対女性関係においては)29歳でめでたく童貞も捨てたことだし、である。なお、三島のこの「生きようとおもった」は、いっけんサルトルのアンガージュマンを連想するものの、しかし、プラトニストの三島は実存主義など大嫌い。では、いったい三島にとって、行動とはどのようなことなのだろう? われわれはすでにその答えを知っている。つまり『金閣寺』ですでに三島の人生は、不穏な方向に傾斜しはじめているのである。




この作品『金閣寺』は批評家たちの評価も高く、商業的にも大成功した。おそらくその理由は、敗戦後GHQによって国体を破壊され、心の拠り所を失った日本人の失意と、同時に戦時下から解放された自由のないまぜになった昏いパッションとこの作品が同調したからではなかったか。あの時期日本人はおもっただろう、金閣寺? 知ったことか。おれたちは金閣寺なしで生きてゆく。それは三島と戦後の奇跡的な共感の一瞬だった。




なお、金閣寺放火事件については、後年水上勉の『金閣炎上』1979年が書かれた。こちらの方が真実に近いだろうことが察せられます。なお、酒井順子さんは『金閣寺の燃やし方』講談社刊2014年で、両者を比較分析しておられます。









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