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戦後三島由紀夫は精神の危機を迎えた。『金閣寺』『鏡子の家』

三島は大東亜戦争の渦中に育った。いつ死ぬかわからない恐怖とともにある日常のなか、灯火管制のなか詩を書き、ラディゲを読みふけり、美を追い求め、死ぬまえになんとか一冊の名作小説を残したいと願い原稿用紙に向かう少年。それが三島だった。三島は、大空襲で焼け落ちる東京に美を見る少年でもあった。三島はなぜか火事に興奮する男なのだ。そんな三島にとって、戦後日本はさぞやしらけた悪夢だったことでしょう(というふうに理解するように三島自身が要請する。)「進め一億、火の玉だ」「一億玉砕」と叫んだ日々はどこへ消えた。天皇陛下は人間宣言を四、GHQに国体は崩壊され、社会規範もないかの如き時代になってしまった。



なぜ三島は31歳で『金閣寺』(1956)を書いたでしょう。これは実際に起こった金閣寺放火事件をもとにしています。金閣寺が世にも美しいと洗脳されて育った鬱屈したどもりの禅僧は、その金閣寺のみじめな実態を目にした瞬間、うろたえ、絶望し、挙句の果てにこんなもの燃やしてしまえ、と黒々と不穏な情熱を沸き立たせる。なるほど、日本を内側からも外側(欧米人の視点)からも見ることができる三島にとって、小説構成上金閣寺を主題にしたことは絶妙ではある。またこの事件は三島にとって願ってもない題材だったでしょう。しかしながら、いったんその小説を輝かせるたくらみを括弧にくくると、ぼくは不思議におもう、金閣寺が美しかろうが、朽ち果てて貧相だろうが、そんなの三島の人生にとってどうだっていいことじゃないか。ところが、そうではないのだった。



三島にとっては何事につけ揺るぎない規範が存在してくれなくては困るのだ。文学であればラディゲ、コクトー、オスカー・ワイルド、バルザック、スタンダール、トーマス・マン、そしてプルースト。三島は日本文学の古典もよく読み込んでいるけれど、ぼく自身の側にここで何を代表すべきかわからない。いずれにせよ、三島にとって美であれば金閣寺なのである。したがって、三島にとっては、みすぼらしい金閣寺など許し難い言語道断なのである。三島は敗戦後の混乱期に日本の美がないがしろにされ、しかも美の基準さえもがなし崩しにされていることに怒り、結果あきらかに金閣寺放火犯に共感しています。



この作品『金閣寺』は批評家たちの評価も高く、商業的にも大成功した。



その三年後三島は、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『甘い生活』(1960)に喩えもする『鏡子の家』(1959)を34歳で書いた。描かれた時代はとても特徴的な時代です。なぜなら、戦後の焼け跡のなか日本人の3人に1人が家もなく、まともな仕事にもありつけないどころか、食いものにも難儀する時代が、しかし朝鮮戦争によって経済が活性化し、ようやく日本人が希望を見出したのもつかのま、しかし朝鮮戦争の休戦によって特需が止まった1954年~55年をこの小説は描いていています。(もっとも、この小説が扱っている時代の翌年、1956年のニューヨーク市場は高値を記録、この年日本の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。また、『鏡子の家』出版に先立つ4月には、皇太子・明仁親王と平民ご出身の正田美智子さまがご結婚しておられます。戦前に天皇は神だったゆえこれはありえなかったこと、まさに戦後の象徴天皇制、国民に寄り添う皇室の在り方が具現化された出来事で、マスコミも国民もこの出来事に喝采を送った。しかし、繰り返しますが、三島はあえてそれに先立つ1954年~55年という中間的な、空虚な時代を選んでいます。)



さて、『鏡子の家』はこんな物語です。資産家の令嬢・鏡子のサロンに集まる4人の男たち、ボクサーの大学生・峻吉、童貞の画家・夏雄、美貌の俳優で劇団の研修生・収、やがて世界は滅亡するだろうと信じている皮肉な認識者・商社マンの清一郎、そしてサロンの主で、かれらをはべらせて楽しみながら、けっしてかれらの人生に関与しようとはしない三十歳の美女・鏡子の、空虚な時代に生きる華やかで目的を持たない生活とそれぞれの没落と破綻を個別に描いた作品である。三島はかれらをアイロニカルに(皮肉たっぷりに)描く。あるいは三島は、石原慎太郎の『太陽の季節』(1956)を意識していただろうか? いずれにせよ、『鏡子の家』は文壇でごく一部の例外的高評価を除けばほぼ無視され、あるいは酷評され、三島はたいそう傷ついた。



むかしもいまも純文学にはまじめであることが求められがちなもの。いいえ、三島にとってこの小説はこれ以上ないほどまじめな小説なのだけれど、しかし、世間は三島がこの小説に賭けた誠実をまったく読み取れなかった。それどころか、なんだ、この太平楽なチャラチャラした小説は、と呆れた。なるほど、この時期変態文豪の谷崎潤一郎は『鍵』(1956)を書きもしたし、『瘋癲老人日記』(1962)が続く。とはいえ、それはあくまでも谷崎が明治末、自然主義全盛時代にデビューし、大正バブルの時代に異端の作家としての地歩を築き、戦後は文壇の長老だったゆえ許されたもの。逆に、石原慎太郎は1955年23歳でデビューした若者作家だったゆえ、無軌道な若者の性を描いた作品で文壇を驚かせることができた。それに対して34歳の作家・三島由紀夫が書いた、カネ持ちの令嬢のサロンで、登場人物たちは全員、自分が情熱を賭ける対象にのみ夢中で、他者に関心を持たず、しかもサロンの30歳美女はかれらを観察・鑑賞しているだけなんて話は、たとえその結末が登場人物たちの人生の崩壊であるにせよ、お呼びでないのだった。たとえ、その「理解」が三島の真意からどれだけかけ離れていようとも! 



繰り返すが三島は傷つき、絶望した。なぜなら三島はこの世界に秩序があってくれてこそ、時代精神にロマンティック・アイロニーをもって対峙することができる。しかし狭義の戦後の、規範を失った無秩序のなかでは三島はいったいどんな作品を書いて世間を挑発し、どんなふうに生きたらいいのかまったくわからないのだ。三島はあきらかに精神の危機を迎えていて、三島は『鏡子の家』でそれを訴えたのだ。しかも、三島には、自分の魂の叫びをみんな理解してくれるはずだ、という期待があった。ところが、現実は前述のとおりである、本の売れ行きこそ立派なものだったけれど。



なお、『鏡子の家』が発表された1959年と言えば、大江健三郎が『われらの時代』を発表した年でもありました。大江は書いた、「遍在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ、これがおれたちの時代だ。」なお、この作品もまた批評家たちから厳しい評価を受けながらも、しかし文学界の若きスターはいまや大江健三郎になりつつあった。



すでに三島はボディビルをはじめて4年目、剣道もはじめています。『鏡子の家』の脱稿まえには妻・瑤子さんとのあいだに長女をさずかっています。三島は作家として生きてゆかなければならない。また、『鏡子の家』執筆中に三島は大田区南馬込の坂の上にロココ風の白亜の殿堂を建てて引っ越し、そこはそれこそ鏡子の家さながらの〈三島の家〉となり、三島は多士済々の友人知人を招いて豪華なパーティをひんぱんに開催するようになる。













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