あまりにも気の遠くなるような話は抜きにして、日本の飛鳥時代、西暦でいえば650年前後に中臣鎌足という人物がいました。天皇家のお血筋ではありませんが、昔から神様をお祀りする神事を司るお家柄でした。第38代天智天皇の側近として活躍し、亡くなる間際、天皇から藤原の姓を与えられました。
藤原不比等というのは、この鎌足の子供です。不比等の子の中に、4人の男子がいました。武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂、一般的に藤原四兄弟と呼ばれます。この兄弟はこの先も度々Pocket記事に出てくるかも知れません。覚えておいてくださいね。
それでは、次男房前をたどっていきます。房前の三男・真楯。真楯の三男・内麻呂。内麻呂の次男・冬嗣。冬嗣になると聞き覚えのある方が増えてくるでしょうか。この冬嗣の六男・良門。そして良門の次男・高藤(たかふじ)。今日はこの高藤のお話になります。
このお話は、平安時代末期に成立したとみられる『今昔物語』の中に残されていますが、事実性は非常に高いように思います。
最後のくだりでは、高藤が思うだけでなく世の人々にもまた、これは前世の契りだったのだろうと語り継がれたと結ばれています。
実は高藤と列子の娘が嫁いだ宇多天皇という方も、一度源姓へ臣籍降下した後、皇族復帰をして天皇になったという、数奇な運命を辿った人物なのです。
さらに言えば、子の醍醐天皇は臣籍生まれの天皇なのです。
(余談ですが、宇多天皇が源定省として宮中に仕えていた頃、在原業平と殿上の間の御椅子の前で相撲をとり、2人の体がぶつかって椅子の手すりが折れたという逸話が残されています。不思議ですが、私はこの話を知った時に、この時代のリアリティを強く感じたものです。)
高藤の純愛物語のみでなく、同時期、天皇家の方でも運命のイタズラ的な事が起こっていたことを考えると、前世の契りも含めて、大きな思し召しがあったように思えてなりません。いえ、だからこそ全ては前世の因縁ということなのでしょうか。揃って異例の開運劇という、類い稀な歴史のひとこまにも思えます。これが愛の神秘の扉が開かれた時ということなのでしょうか。仮初めの雨宿り。何かが降らせた雨だったのかも知れませんね。
そして、この高藤のそう遠くないお血筋に、紫式部は誕生します。物心ついた頃には既に伝わっていたと思われますが、人よりも身近に感じられただろうこの話は、紫式部の心をどんな風に動かしたのでしょうか。
これは『源氏物語』の中の明石の上のモデルになっていると考えられています。孫が天皇になるところをみると、確かにそう考えてもよさそうです。もしかしたらその中に、紫式部の思いが込められているかもしれませんね。
今日は随分長くなってしまいました。
続きはまた…
最後までお読みいただきありがとうございました。