ご縁が色々重なって、全てが集約されて、今の自分があると思う。【生産者さんインタビュー:宮尾 浩史さん】 -有機農業をはじめるまで編-
こんにちは!The SUZUTIMES編集部の これえだ です。
今日お届けするのは、私たちが日頃からお世話になっている新潟の生産者さんのインタビュー記事、第二弾です!
ご協力いただいたのは新潟市に農園を構える、宮尾農園の宮尾 浩史さんです。
私が新潟の店舗にいる頃も、店舗まで卵を届けに来てくださったりイベント等でお会いしたりと、度々お世話になっていました。
少し顔を合わせただけでも、あたたかさと癒しをもらえる存在。宮尾さんとお話しているとポカポカしてきて、涙が出そうになるんです(笑)そのくらい、愛に満ちた方です。
▽第一弾、長岡の農家さん竹内さんについての記事はこちらから!
── 本日はよろしくお願いいたします!お忙しい中すみません・・・!
大丈夫ですよ。もう稲刈りは終わってまして。
今は精米したり、直接お米を届けるのに配達に行ったり・・・忙しくはやってますが、兄弟や親戚に手伝ってもらっているので大丈夫です。
── そうですよね、直接届ける(配達)まで、と思うとしばらくお忙しいですよね・・・そのスタイルはお父様の代から始まったのですよね。
そうそう。1980年代のことです。
当時は主食(お米)を全て国が管理していて。別ルートで売ったら闇米になっちゃうような時代ですね。
それが、お米が行き渡るようになってきて、減反政策が始まった頃・・1980年代後半から特別栽培米なら農家が直接売ってもいいですよ、という動きが生まれました。
そんな頃、弟が事故に遭ってしまい、父が東京の病院と新潟を行き来することになり。親戚が「せっかく東京来るならお米でも持ってきたら?」なんて言ったところから自分で販売することを始めたんですよ。
── そんな流れで今のスタイルが!
そう、当時のことで言うと、自分は地元企業で働いていましたしね。
── それ、知ってびっくりしたんです。私の中で宮尾さんは“土”の人っていうイメージがあって。でも“海”で働かれていたんですよね。
へぇ〜、なんだか嬉しいなぁ〜(笑)
新潟の、海産物を加工する会社(加島屋)で働いていて。1年の1/3くらいは北海道で仕事してましたよ。
── そこから今に至るきっかけはどこにあったのですか?
北海道で働いていて、昔はたくさん獲れたニシンやイワシがほとんど獲れなくなっていたんですよね。
それは、人間が魚たちの住む環境を変えたから。
堤防や川を護岸したり、上流の森が開発によって荒れたり。
産卵場所や餌になるものがなくなっていき、昔はたくさんいた魚がいなくなった。
人工的に孵化をさせることで高級魚なはずの鮭が豊作になって、鱈の代わりとしてすり身の原料にすることだってあった。
そんな状況を目の当たりにして、人間が行なってきた環境に対するアプローチが、自然に負荷をかけていると言うことを肌で感じたんです。
自然を守る動きをしたいと思って、マイ箸を使い始めたりしたんですよね。
その頃、ちょうど結婚して、子供も生まれて。
すると、身の回りに、本当は身体にいいもの“じゃないもの”がたくさんあると感じるようになったんです。
子どもには、本当に安心安全なものを食べさせたい。
効率や便利さを追求したことで、私たちの暮らしを支えてくれている環境がどんどん悪くなっていいのか?
子どもたちに、未来の人たちに申し訳ない。そう思うようになりました。
加島屋は「昔みたいな方法で、美味しいものを作るには?(添加物を使わずに美味しいものを作る)」というチャレンジをしている会社でした。
いい経験をさせてもらったけれど、自分がいなくてもやっていける会社でした。
でも、実家は違う。自分が継がなければそこで途絶えてしまうんですよね。
環境負荷を減らしながら安心安全なものを作りたいという気持ちと、そんな想いが重なって、農業をやることを決めたんです。
── なんだか、全てが繋がっているんですね。そして想いが重なったタイミングがあったと。
そうなんだよねぇ。
父の売り方を見て、消費者の方が直接買ってくれる金額なら、採算が合うようにできるのでは、と思ったのも一つでしたね。
── 当時の流れを聞いていると、無農薬や有機栽培って今ほどキーワードがなかったと思うんですけど・・・
そう。
ただ、そういう農業を誰でもできるようにってできたら、森も汚れない、海も汚れないって、理想は持っていたんだね。
有機的な農業が全体に広がればって思っていましたね。
── その、やってみようって決心と一歩がものすごいことだと思います。
僕は出会いが大切だと思っていてね。
自分の師となる人に恵まれてきたと思っています。
今もオリジナルでは語っていなくて、出会ってきた人から教えてもらったことを実践しながら少しずつ自分の言葉にしてきたんですよ。
最初に出会ったのは韓国式自然農法の趙 漢珪(チョーハンギュ)さん。
印象に残っている言葉があって。
「農業をやることに必要なものは自分の足元にある。」っていう。
人類は昔から、身の回りにあるものを食べて生かして命を繋いできたんです。
そこの土地に生きる他の生き物と共有しながら、分かち合いながら、長い間やってきた。
だから、地元のもので、身近なもので始めました。
鶏を飼って、その生活から出た発酵した有機物が含まれた土がお米を育てて。それによりできたものがまた鶏の飼料になって。
そういうものを未来に繋いでいけばいいんだと思ったんです。
次に出会ったのが木村秋則さん。
「何も入れなくて大丈夫」という言葉にびっくりしました。
日本は高温多湿で豊かな国。そこら辺に雑草も生えているし虫だってたくさんいるでしょ。って。
ただ、やっぱりやり始めは自分の技術が追いつかなかったんだね。
普通の農業をしていた父にも「できるわけねぇ」って言われたこともあったよね(笑)
── 聞けば納得の理論というか。そういう昔ながらの暮らしを再現することが難しいってなんか不思議ですよね・・戻ろうとするのにって。
でも、そりゃそうなんだよ!
昔の人は全て手作業だったでしょ。稲を植えるのも収穫も手でしてた。
だから、やりやすいように大きな苗を育てていたんだよね。
苗が大きくなる40日間をかけて田んぼを準備して、強い苗を育てていたわけだ。
でも今は違う。いろんな機械ができて、全て手作業ってわけじゃないでしょう。
効率良くするためには小さい苗をたくさん植える方が良くて。
そうなるとまだ弱い苗だから他の草に負けちゃうんだよ。だから除草剤を使うことになる。
機械化によってアプローチが変わるから、昔のやり方のままではうまくいかないんだよね。
昔の人は身体を精いっぱい使ってそれでちょうど良くできる栽培技術を持っていた。
でも今は、身体や人の手ではなく機械を使うから、『機械を使いつつ、人の身体でやっていたエッセンスを取り入れた技術』にアップデートする必要があるんです。
当時の自分にはそれが見えなくて!
だんだんやりながら見えてきたし、あっちこっちでうまくいく人も増えてきた。
それが面白いんだわ!!!
── なるほど・・・!確かにそれはそうだ。そんな、見えそうで見えない作業を続けることは大変だったはず。
でも、そのヒントが、昔の人の話にあるわけよ。
だから、僕は近所の米作りをしていたおじぃちゃんおばぁちゃんの話を聞くのが大好きなのよ〜。
例えば、「昔は草(雑草)を取らなくても、子供が田んぼの中を歩くだけで草が生えなくなる」っていう話をしてくれたの。
要は、「稲が元気になると、雑草よりも雑草よりも稲が優位になって、草が生えにくくなる。」ということなんだけど。
それを子どもの代わりに機械でやるとしたら・・・田んぼの土をカルチという機械でかき回してやればいい。息子や娘、我が子が親と一緒に田んぼにいるのを楽しんでいるような感じでかき回すの。
そうすると稲は元気になって、相対的に草は生えなくなる。
こういう、すごいヒントが昔の人の言葉には隠されているんだわ!!
── 面白い!!昔の人が当たり前にやっていたことを噛み砕いて考えると、そこには理にかなっていたり、今でも欠かせないものだったりが隠されているんですね。それを今に置き換えて考えるの、とっても面白い!!
そうなの。もちろん、昔はなかったけど今あって助かるものってたくさんあるでしょう。
想像力をはたらかせたら、今までできなかったことができるようになる。
昔のことをヒントに、今の機械や環境を活かしてどんなふうにやったらうまくいくんだろうって考えること、試行錯誤することって、とっても面白いんだよね。
それはSUZUも同じだと思っていますよ。
共感して一緒にやらせてもらっています。
── 私も、後半は少し自社の考えに重ねて聞かせていただきました!同じように面白がれる方と繋がっていること、心強いと感じます!!
次に伺いたいのは私個人も大好きな「大地通信」についてなのですが・・・
ということで、第一部の「-有機農業をはじめるまで編-」はここまで。
オンラインでお話しさせていただいたのですが、特に後半部分はすごく熱量を込めてお話ししてくださるのがわかり、私はとっても嬉しかったです!!
別作業をされていた奥様も時たま会話に加わってくださり。
お二人の仲のよさも感じました。(今後、その辺も伺っていく予定です!)
少しの時間お話を伺っただけで、3,000字オーバーの記事に・・・!!
どれも聞き逃したくないお話ばかりで、ちょっと長編になりそうです(笑)
インタビューは何度かに分けてさせていただいているので、適宜、タイムリーにお届けできればと思っています。
次回「-大地通信編-」もお楽しみに!!