「ママ、ほうせき見つけたよ」3歳半の娘が教えてくれた魔法の言葉
最近、3歳半の娘の言葉が面白い。
どんどん新しい言葉を吸収して使っているので、思わず吹き出しそうになる場面に多々遭遇する。
朝ごはんを食べているとき、小1の息子とほっぺたにご飯粒がついていたので、
「こうちゃん、ご飯粒ついてるよ!」
と教えてあげたら、息子の真正面に座っていた娘がすかさず
「こうちゃん、いちご、ついてるよ!」
息子とお茶わんの内側にはイチゴの絵が描いてある。
↑カラスのパン屋さんのお茶わん。
そう、ただ「ついてる!」って言いたいだけ(笑)
あるときは、クマのぬいぐるみで、おままごとをしていた娘が突然、
「あいしてるよーー!」
皿を洗っていた手を思わず止めて、顔をあげてしまった。
意味を分かって使ってるのだろうか?
どこで聞いてきたんだろう?
少なくとも、夫婦の会話ではないことは確か。
仲はいいけど海外ドラマばりに毎朝抱擁したり、愛の言葉を伝える夫婦ではない。
少し前に、たまにはほっぺにチューでもしようかしら♡なんて思いたち、ソファの隣に座っている夫に顔を近づけたら、よけられたので
「何でよけるの!!??」
と言ったら
「だって、頭突きされるかと思ったんだもん」
どこの妻がいきなり夫に頭突きをするのか。こんな軽口は叩き合える、アラフォー夫婦です、って話が脱線しました。
さて、お風呂上がりのある日。
「ママ、ほーせき、みえるよ!ちょっときて!」
パンツ一丁でウロウロしていた娘が、まだバスタオルで体を拭いているわたしを呼びに来た。
何だろう?と思って、体にバスタオルを巻いてついていくと、洗濯物を干すサンルームに入っていく。
「ほら、ほーせき。みたらね、みえるの」
すりガラスの向こうに街灯が光っている。
きらきらしていて、確かに宝石みたいだと思えた。
久々に聞いたな。宝石って言葉。
「ねー、きらきらでしょ?」
ディズニーのアリエルがプリントされたピンクのパンツをはいた娘は、身体をすりガラスにくっつけて、外を見ている。
その後ろ姿を眺めながら、わたしの頭に流れていたのは、カントリーロード。
ジブリ作品「耳をすませば」の主題歌だ。
どの映画もそうだと思うけど、ジブリ作品は特に、観る年齢によって揺さぶられる感情が変わってくると思う。(ナウシカも、ラピュタも、魔女の宅急便も、千と千尋も、全部泣ける。今までスルーしていた場面でグッとくる)
「耳をすませば」は中学生の甘酸っぱい青春物語というとらえ方をしていたけど、今はちょっと違う。
自分のやりたいことや好きなことを、探してもがいている中学生の雫と聖司。その可能性を模索する様子が、宝石の原石に例えられているのが、今のわたしにはジーンとくる。
なぜ、アラフォーのわたしが、将来に悩む中学生の姿に共感を覚えるのか。
同じように悩んでいるからだ。
「ライターになる」と決めたけど、まだ「決断」はできてないみたい。
先日友人とランチをしていて、言われたのだ。
決断=決めて、断つことがまだできていない。
「もっと、自信を持った方がいいよ。言い訳しない。大体の人は決めることはできるけど、その先がなかなかできない。”決断”が大事だよ」
うん、まだ断てていないと思う。
「断つ」といっても、退路を断つとかではなくて。
本気になるというか、言い訳をしないという方が、しっくりくるかもしれない。
まだ子どもが小さいから。
なかなか自分の時間が取れないから。
まだ準備ができてないから。
そう、自分への言い訳があると、進む速度が遅くなる。
自分で自分にブレーキをかけてしまっている。
「決断」
その言葉がずっと心の奥底に刺さっていて、なかなか取れない。
図星だからだ。
「でもね」「〜なんだよね」っていうネガティブワードを、使っていないつもりだったのに。
何か吹っ切れたような、凛とした様子の友人の眩しさに怖気付いたのか。わたし自身のなさがあふれてしまったみたい。
でも、彼女がはっきりいってくれたから、気づけた。
このタイミングで会えたことに感謝してる。
ちゃんと決断しないといけない。
わたしはできる。わたしはやる。
街灯の光を宝石といった娘のように、日常には原石が転がっている。
その原石を見つけられるか、それを磨いて宝石にできるかは、自分にかかっている。
ほうせきは、みたら、みえる。
自分が使える語彙で精一杯を伝えてくれた娘の言葉に励まされる。
そう、見たら、見える。
見ようとするから、見つけようとするから、見えるんだ。
わたしの中に見つけた小さな原石。
ちゃんと磨いていくよ。
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