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オオカミ少年の実害
誰の利益や損益について言っているか、その解釈が実像を貶めていないか、歪めていないかが興味の全てです、本来なら。…よっぽど切羽詰まって居ない人間にとっては。
1872年に福沢諭吉が"The Moral Class-Book"を翻訳した『童蒙教草』第26章に『信実を守る事(イ)羊飼ふ子供狼と呼びし事』としてこの寓話が掲載されている。それによればラストは「これがため夥多(あまた)の羊はみす/\(みすみす)狼に取られければ」となっている。同年に渡部温によって訳された『通俗伊蘇普物語』第三十には『牧童と狼の話』として紹介されていて、ラストは「数多の羊一疋も残らず皆狼に喰れける」となっている。
なお、1892年の6月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後10年ほどで絶滅するとは考えられていなかった上に、写真はそう簡単に撮れるものではなかった。
オオカミが家畜を襲う話は(元々は狼で無く猿だそうだが置いておいて。)そのオオカミの存在が希薄になるにつれて実害では無く。自ずと「最後、羊飼いの少年が食べられた」という童話性が、Narrative(ナラティブ)こそが重要になり、近代に伝わっているようです。
ナラティブ…またガンダムの話の事かな?言葉の口当たりはともかく、少年の虚言の飛躍、嘘の連続は慣れを生み、結果さえ馴れ合いの人々の他愛もない話題として、陳腐な結論に落ち着きつきます。
「嘘はいけないね、嘘つきには罰が下るね」
しかし話の本質はまず少年の無責任、稚拙によって家畜が被害を負うこと。
そして「その程度の認識」で済むという安心は、リアリティの喪失。少なからず狼の絶滅によって、野生の狼への必然的な無知によって担保されています。
・・・・・
有りもしない大成功は、上手く成立しても嘘のように虚しい、それが事実。それこそわざわざ求めてまで得ようとする、知見の本質のはず…。
しかし『パブロフ犬』という同じくの #イソップ童話 も有り。
事件を経て、人々は都合の良い、御し易い見栄えのみへの注視を止めない。今の空腹を充たす食肉を、湖の水面に落っことさんとする間抜け面を水鏡に湛えて。
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