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#19 壊れものとしての人間

 その日は不思議な日だった。初夏のある夜。酔っ払って帰る九段下からの帰り道に、大江健三郎の本が何冊も落ちていた。大江健三郎は昔読んだことのある作家。詳しくはないけど、話を合わせることができるくらい。誰が何のために本を歩道に無造作に置いたのだろうか。

#九段下
#歩道の上の大江健三郎



 そんな不思議な出来事の前に、不思議な人に会った。馴染みのBARではなく小さな半地下のBAR。外観はおしゃれ。前から気になっていた所だ。恐る恐る中へ入ると、そこは少しだけ眩しかった。それは天井から入る光ではなく、床からの間接照明が全体をぼんやりと照らしていた。床は明るいのに、視界を高くすると薄暗くなってくる独特な空間は、高層ビルからテールランプの行列を見るかのようだった。
 客は誰もいなく、女性が1人バーテンダーをしていた。年はだいぶ上、初老に近いという感じでニコニコしながら私を迎えてくれた。そして、信じられないことに、彼女は酒を片手に出来上がっているようだった。

『何を飲みますか?』

 外観や内装から想像できない酒焼けした声で注文を聞いた。

『ジントニックで。』

 BARの技量を測るにはジントニックかだと言われるが、そんな意味はない。単純にジントニックは好きなお酒。

『お客さんは初めてなんだね。昔は料理も出していたんだけど、こんなものしかなくてごめんね。』

 彼女は申し訳なさそうに机の上にカルパスと柿の種を置いた。誰もいない間接照明の効いたお店では、他愛のない、意味のない会話が続く。

『このお店は開いてから20年くらいかしら。コロナ前までは軽食もやっていたけどね。その頃はバイトも雇ってね。近くの会社の人たちがよく遊びに来てくれてね。今はぱったり。たまに昔のよしみで来てくれるけどね。ひとりで飲みっぱなしよ。なんせ、家にいるよりはね。ここで飲む方が良いし。家に帰ってももう息子は成人したし。でもね、たまに帰ってきてくれるのよ。私を心配してじゃないと思うけどね。』


 話が長い。終わらない。スナックみたいなBAR。多分、彼女は寂しい。少しだけ伝わってきた。でも笑顔が素敵な気がする。


『夫を早く亡くしてね。女でひとり育てなきゃいけないから、でも何にもなくてね。BARでもやろうかなと思ったの。お酒も好きだし。20年もやるとねぇ。でも息子も立派に成人したし、でもね、たまに帰ってきてくれるのよ。私を心配してじゃないと思うけどね。あなたは何をしてるの?』


 さっきも聞いた話が10分以内にリピートされた。彼女はきっと息子が好きなんだ。


『そう、金融機関なの。私もね、投資しない?って金融機関の方が来るんだけど、わからないから。なんにも。ずっと断ってたの。でもね、若い女の子が来たときにね。困ってる姿を見たの。多分困ってたのよ。だから何にもわからないけどサインしたわ。多分悪い子じゃないし、今も儲かってると思うのよ。息子もこんな感じで働いてるのかなって。君は独身なの?』


 私の左手の薬指に視線がきた気がした。さっきの話から5分後にまた息子の話をされた。彼女がこの城で育てた息子。誇りそのものなんだろう。僕は彼女の質問に曖昧に答えた。そして、女ひとりで育てたことを尊敬するし、女性の強さについて少しだけ話そうとした。


『君はね、その子を大切にしなきゃいけないかもしれない。いつまでも待っててはくれないのよ。心配なんでしょ?好きとかではなくて、もうね、聞いてるとね。』


好きではなくて心配。これは最近思うところ。少ししか話していないのに、確信に迫る彼女が少し怖かった。お酒は3杯は飲んだだろうか。


『さっきから聞いてるとね、君はきっと卑怯なんだよ。安全地帯から出ないよね。傷つくのが怖いの?なんとかなるのが人生なのよ。』


卑怯と言われたのは初めてで、それが心の柔らかい部分が少しチクチクさせた。照れ笑いで逃げた。苦労話しを挟みながらありきたりな言葉で確信を突くのは、年の功かもしれないし、彼女のスキルかもしれない。そして、照れ笑いで逃げる私はやはり、卑怯なのかもしれない。酔いが回ってきたので帰ることにした。

よく話す人だった。
人をよく見ている人だった。
帰り道に、道路に大江健三郎の本が散らばっていた。
そこに『壊れものとしての人間』という本があった。私は、『詳しくはないけど、話を合わせることができるくらい。』と思っていたが、そこに散らばっている本のことなんて、何にも知らなかった。我ながら卑怯だなと思った。

#壊れものとしての人間
#どこか壊れてるくらいでもいいのかもしれない
#大きな玉ねぎの近くの捨てられた本

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