「半神」 萩尾望都 何故「わたしの神」なのか
*ネタバレ 萩尾望都「半神」全体・ラストまでの言及があります。
何故、「半神」というタイトルなのか。
何故、姉は死んでしまった妹を「わたしの神」と呼ぶのか。
何故、憎しみ続けていたはずの妹に「愛していたよ」と語りかけるのか。
一つの試みとしての解釈です。
*画像はすべて、萩尾望都「半神」です。
「半神」は、1984年に「プチフラワー」に掲載されました。
今からちょうど40年前の作品です。
しかし、40年経っても少しも色あせることのない正真正銘の傑作です。
この作品は、一卵性双生児の姉妹の物語です。
二人は、腰のあたりでくっついているので、離れられません。
妹は美しく、姉は醜いのです。
萩尾先生は、昔から双子にとても興味があって、ある作品を描いた事をきっかけに、「本当にくっついて生まれちゃったらどういう風になるんだろう。妹が美しくて姉が醜かったらやっぱり相手に嫉妬するだろうし」等々、色んな「思考のバリエーション」を考えたそうです。
姉のユージーは、妹のユーシーの面倒を何から何までみなければいけません。妹は極端に知力が低く、足腰も弱い為、姉が妹を支えて運ばないといけないのです。
食べさせたり、飲ませたり、トイレにつれて行ったり、何でもします。
お風呂に入れば沈められるし、大好きな勉強をしようとすれば邪魔をされます。
邪魔をされて怒って喧嘩になると、父親から「お説教される」のはユージ―です。
ユーシーはよく熱をだします。そうするとユーシーではなく、ユージーの体中に湿疹ができます。
熱が下がれば、ユーシーはますます美しくなり、ユージ―の体はカサカサになります。
周囲の大人は、ユーシーの美しさばかり称賛します。ユーシーは、皆の愛情を一人占めしているのです。
ユーシーの体は自分では養分を作れないため、ユージ―がつくる養分のほとんどがユーシーへと流れ込んでいきます。
「妹はアクマのようにわたしの養分を吸いとっているのです」とユージ―は呪います。
「いっそ妹を殺したい わたしの不幸はそれほど深い」
ところが、2人が13歳になった時、医師が手術の提案をします。
このままでは二人とも死んでしまうので、二人を切り離してユージ―だけでも助けようというのです。
ユーシーは死ぬことになりますが、ユージ―は別にかまわないと考えます。
手術の後1ヶ月たって、ユージーはユーシーに会いに行きます。妹には死期が近づいていました。
そこには変わり果てて、自分と同じ姿になった妹の姿がありました。
ユーシーは死んで、ユージーだけが生き残って成長していきます。
「わたしの神」
聖書に、キリストの弟子の「デドモと呼ばれるトマス」という人物が、復活したイエス・キリストに会って「わたしの主 わたしの神」と呼びかける有名な場面があります。
「デドモ(ギリシャ語)」も「トマス(アラム語)」も「双子」という意味です。(ちなみに萩尾先生の名作「トーマの心臓」の「トーマ(ドイツ語)」も「トマス」です。)
「双子の姉」のユージ―は16歳になり、夜中に鏡の中に死んだはずの妹を見出し、妹がよみがえってきたかのような錯覚を覚えます。復活したイエスと出会った「双子のトマス」のように。
そして呼ぶのです。
「わたしに重なる影ー わたしの神ー」と。
一神教のキリスト教圏などでは、通常「人間」に対して「神」「わたしの神」と呼ぶ事はない、タブー視されていると思いますが、ユージーはユーシーを「わたしの神」と呼ぶのです。理由があると思います。
ユージ―は鏡の中の妹を見つめながら、ユーシーが亡くなる直前の様子を思い起こします。
「わたしの半身は あのとき死んでしまったの・・・?」
キリスト教の信仰では、「イエス・キリストが十字架にかかって『身代わりの死(贖いの死)』を遂げたので、人々に永遠の命が与えられる」とされています。
ユージ―の場合は、妹の死の代償によって姉に命が与えられました。
ユーシーは普遍的な意味での「神」ではありません。
ユージ―に命を与えた、ユージーにとってだけの「わたしの神」なのです。
反転・呪縛
13歳の手術の時に「反転」が起きました。
それまでは、ユージ―がユーシーに養分・生命を与えていましたが、手術の結果、ユーシーが生命を失いユージ―に生命が与えられました。
そして、ユーシーの容貌がユージ―のように変わり、逆にユージ―の姿はユーシーそっくりになっていきます。
ユージ―は「一番きらいな自分自身の顔」から「あんなにきらっていた妹の姿」へと変わっていくのです。ユージ―にとって容貌の変化は非常に嬉しい事でしたが、ただ単純に喜べるものではありません。
ユージ―は周囲の人々の影響を強く受けて、ルッキズムの呪縛に取りつかれていると思います。ユージ―とユーシーのような関係の状況で育てば、誰でもそうなると思いますが。
誰か1人でも、13歳までのユージ―をありのままの姿のままで、受け入れて愛してくれる存在がいたら違ったのだと思います。
混乱・困惑
16歳になったユージ―は、鏡の前で混乱します。
「わたしはわからなくなる だれ? あれは」
「やせて死んでいった妹は ひきはなされた半身は あれは わたし わたしだったーの・・?」
「じゃ なにいまの わたしは・・?」
今現在、鏡に映っているのは、妹の姿。
3年前の思い出の中にある、死んでいった少女・妹は、かつての自分の姿。
死んでしまったのは妹のはずなのに、生きている自分は妹の姿をしている。
本当は死んでしまったのは、わたしなのか?
萩尾先生は「双子なんだし、くっついてたんだから、もしかしたら死んでいたのは、お前かもしれないじゃないかっていう風に話を持って行ったんです。」と言っています。
この「混乱・困惑」の根底には、妹を犠牲にして自分だけ生き延びてしまったことに対する罪悪感が根深く潜んでいるのでしょう。
「愛していたよ 憎んでいたよ」
全体16ページの内、9ページにわたって延々とユージ―の妹への不平・不満・憎しみが語られています。「いっそ妹を殺したい」「妹がその結果死んだからってなんだろう?」
けれども読者は「ユージー、なんてひどいお姉さんなの!」とは思わないでしょう。
ユージーの苦しみに共感を覚えるからです。萩尾先生の描き方が上手すぎます。ユージ―が吐き出す毒以上に、ユージ―の苦しみの苛烈さが伝わってくるからです。
「半神」というタイトルですが、これは徹底的に「人間の物語」です。
ユージーはとても人間らしい少女です。
だからこそ、この物語にどうしようもなく心揺さぶられるのです。
最後のページ、鏡の前で涙を流しながらのユージ―のセリフが圧巻です。
「愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを」
「憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを」
「わたしに重なる影ー」
「わたしの神ー」
「こんな夜は 涙が止まらない」
「愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを」
しかし、ユージーがユーシーを「愛している」ように思える描写が一切ないのに「愛していたよ」と語っているのは何故でしょうか。
ユーシーに対するユージ―の感情表現は、徹底的に「憎しみ」だけです。萩尾先生は意図的にそうしたのでしょう。
ユージーの言う「愛よりも もっと深く愛していたよ」というのは、通常私たちが考えるような「愛」とは違うものなのではないでしょうか。
ユージーは、何から何までユーシーの面倒をみてきました。
妹を抱きかかえて運び、いつも支えていました。
食事から風呂からトイレまで、身の回りの事一切の面倒を、24時間365日片時も休まずに(正確には「休めずに」)してきました。
誰に代わって貰うことも出来ず(通常の介護なら、誰かと交代しながらするでしょう。しかし両親は、ルーシーの世話はルージーに任せっきりです。)
文字通り一日中つきっきり、離れることは出来ずにくっついたままで!
それはユーシーへの「愛情」からの行為ではありません。仕方なしに背負わされた重荷でした。
そして、生まれたその時から、妹が生きていくための養分を、自分の体内から与え続けてきたのです。そのためにユージ―自身は、髪も生えず「塩漬けのキュウリ」のような状態でいました。これも自ら望んだわけでもないのに。
そのようにして13年間、ユージーがユーシーを生かし続けていたのです。
ユージーはそのようにして「愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを」
しかしそれは、ユージーにとって容赦のない苦痛の日々でした。
しかも、周囲の人々の愛情はユーシーばかりに注がれる。
だからこそ「憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを」
「愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを」
「憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを」
これが、ユージーがユーシーと一緒に過ごしてきた13年間の全てなのではないでしょうか。
そして、「切り離し」が行われました。
ユーシーはユージーから「切り離された」のです。
しかしユージーにしてみれば、無理やり切り離されたのではありません。
ユージ―は自分の意志・選択で「切り離してもらった」のです。
姉は、妹を自分から「切り離す」事を望んだのです。
それはユーシーにとっては死を、ユージーにとっては生き延びる事を意味しました。
妹の犠牲の死によって生命を得た姉。
そしてユーシーは、ユージーの「わたしの神」となりました。
姉は人間、妹は「神」
半身だけが神、だから「半神」
ユージーは、ユーシーを自分から切り離して「わたしの神」「半神」にしてしまった。
ユーシーは、死ぬ前に会いに来た姉に嬉しそうに手を伸ばして「ユー・・・」と呼びかけます。妹は、無邪気に姉を愛していました。
「やっぱりあれは妹だ ひからびた 何も知らない 妹の」
―何も知らない妹ー
もうすぐ死んでいくことも、その理由も知らない妹
けれども
憎くて憎くて仕方がなかった妹は、自分の事を愛し続けてくれていた。
憎み続けていた妹は、実際には「自分と同じ姿」だった。
何も知らなかったのは、わたしじゃないか。
ユージーは、鏡の中の妹を見詰めながら想わずにはいられません。
ずっとつながり、「愛し」続け「憎しみ」続けていた妹。
13歳のあの時まで、命の養分を奪われ与え続けたわたしの半身
13歳のあの時に、命を奪ってしまい与えて貰ったわたしの半神、わたしの神
命を奪われた事も知らずに、無邪気に愛し続けてくれた妹。
それだから、「こんな夜は涙が止まらない」
40年も前に、ルッキズム・毒親・きょうだい児・ヤングケアラーの問題が扱われています。
それだけではなく、読む人の数だけ、発見・解釈があると思います。
本当に底知れぬ深さを持つ傑作です。