中村光夫『二葉亭四迷伝』
昔、大学生の頃、岩手県水沢市にあった後藤新平の記念館を訪れた際、肖像画をみていたおじいさんが、「かくありたい」と呟いて帰って行った。
「かくありたい」人物はいるのか居ないのか。探しながら生きてきた。
自分というものにさほど自信のない私としては、そうした先達を求めることしか生きる意味を抱くことはできなかったのかもしれない。
中村光夫の『二葉亭四迷伝』は、作家研究の書としては、極めて平凡な内容に過ぎないのかもしれない。中村による二葉亭の評伝。それ以上のものでも、それ以下のものでもないように見える。
この文章を読んで、文学者と私の関係について、示唆を得た。神か敵か、ではなく、一人の悩める人間としての文学者として、中村は二葉亭を遇しようとしている。
そのような関係は、私の在学中は持ちようがなかったが、中年になった今なら、あのころよりもよくわかるのである。要するに、彼のようになろうとして成り得なかった自分自身を持って、彼の全著作にぶつかっていく形でしか、死者と対等な関係を形作ることはできないのかもしれない。
二葉亭の作品は、ある種の先駆としては伝えられているものの、我々の模範にするにはあまりに失敗作である、と中村は断じつつ、「彼の生涯は明治という時代精神の演じた悲劇」と述べる。しかしながら、悲劇であろうと失敗であろうと、そこには何か見逃せぬものがある、ことを中村は指摘する。
「とりかえしのつかぬ浪費のうちに彼の一生は流れ去った」けれども、「彼が生かそうと試みた理想は─たんに文学の領域を例にとっても─明治という時代が抱くことを許したかぎりの最も美しいものであり、他のどの同時代人のものよりも、僕等に深く語りかけるから」中村は、二葉亭を語るのだ、とも述べる。
文学することが国家を論じることと切り結ぶことの出来た精神の光芒を、中村は二葉亭の中に見た。しかし、本当の意味での二葉亭の遺産とは、彼の精神の「働く」姿であり、それを見るには作品だけではダメで、「彼の生活」の究明が不可欠なので「伝記という形式」が不可欠である、と締めている。
中村光夫が打ち立てる二葉亭の像は、「政治家臭くない政治家、教師臭くない教師、更に文士くさくない文士、一口に云えばまともな人間」である。ここでいう「まとも」は、逆に演技的であることが良しとされる社会では、不適合者の烙印を押されてしまうだろう。
そんな二葉亭は、このように描写される。
だが二葉亭は、文学のかたわら天下国家のことも忘れられない。この「志士肌」が、自然主義の文学者に言わせると、二葉亭の旧弊な部分となるのだが、そのような新旧のモードチェンジに対する楽天的な信憑に対し、中村は「近代の超克」に懐疑的ながら沈黙せざるを得なかった世代の一員として、次のように言う。
ここまでに紹介したのは序であり、そこですでにこのような二葉亭像が、濃厚に描出されている。この二葉亭像は、とこまで行っても中村の作り出したものに過ぎないのだが、過去の二葉亭像を繰り返し掘り下げることで、痛烈な現代への批評行為として読まれる可能性をはらむテクストになっている。
繰りかえし読む書籍は、繰り返し立ち戻るべき自身の支点にほかならない。中村が二葉亭を支点にしていたように、私も中村の二葉亭を支点にしたい。私も本当の意味での支点を中村が書いたように書かねばならないと思うのだが、残念ながら、まだ、その機会は訪れない。
この『二葉亭四迷伝』は、たぶん、二葉亭を支点にする中村、という二つの文学者の延長上に自分がいるという前提で読まないと、はた迷惑で身勝手で自嘲癖のある二流の文学者としての二葉亭の姿しか見えない。それはそれで面白いのだが。
「四十四歳の彼が、この世評の高かった小説(『平凡』:筆者注)を全く「失敗」と感じていたこと、それも照れかくしや謙遜ではなく、自分の文学的意図と実際に持つ技術とのあいだの落差に心から絶望」した二葉亭の姿に、思い当たる節がある人ならば、きっと見るべきものはあるだろう。
死の枕の直前の手紙では、このように述べている。
二葉亭は卑屈だが不屈の人間だった。偉ぶりもしなかったが、自信がないわけでもなかった。彼は、彼らしく、全てチャラにして世を去った。