横光利一『春園』
私は間違えていた。
おそらくはどこかの図書館のリサイクルコーナーで入手したこの文庫本『春園』を、現在、講談社文芸文庫で刊行されている『寝園』の古い新潮文庫版だと思っていた。
ところが、そもそもタイトルが違う。「春」と「寝」と。どちらも「園」が着く。どうして、こんな紛らわしいタイトルで発表したのだろう。
Shun(春)とShin(寝)。あるいはHaru(春)とNeru(寝)。u/i、あるいは、Ha/Ne。こうした細部の差異からコジツケに近い感想文を書き上げる、というのが、昔の自分の書き物だったけれども、今はもうそういう想像力もユーモアもすっかり枯渇している。
まあ、その深淵なタイトル付けに関する背景に、私が気づいていないだけだろう。いずれわかったら、どこかで書く。今回は横光利一のあんまり有名でない『春園』、紛らわしい『春園』について、感想めいたことを書きつけておきたい。
まずはあらすじから。
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相続放棄の代償に大金を寄贈され、それで洋行に出た「泰太郎」という主人公がいる。
泰太郎は、洋行に出る前に、友人の「安藤」から借金を申し込まれる。安藤が面倒を見ているみなし児の「美紀子」の養育費として、という理由だった。
泰太郎は、洋行から帰ってきたのち、安藤が養育していた美紀子を引き取る。というのも、安藤のところから美紀子が出て、カフェーの女給として働いていると知ったからだった。なぜ、美紀子が出たのか、安藤は妻もいる中で、何をしたのか。
安藤に談判するも、はぐらかされたり、気を持たせられたりで、埒が開かない。けれども、痴情のもつれというよりは、美紀子の出生にどうも問題がある、ということが明らかになっていく。
泰太郎は、洋行の際、「速雄」、「奈耶子」、「彌生」の兄妹と親しくしていた。その父である「林次郎」に一部、武蔵野の林地を売ってもらって、そこに畑と家を建てようと、交渉した。結果、売ってもらって、家を建て、そこに住み、林次郎と親しくするようになっていった。
どうも美紀子は林次郎の長男である速雄の隠し子らしいのだ。けれども、安藤はそれを言わない。カフェーを辞めさせ、引き取った美紀子を林次郎に合わせる。林次郎は、自分の孫であることを悟り、焼き物や様々なことを教えようと、家に頻繁に呼び寄せるようになる。
安藤は、どんどんおかしくなっていった。妻と離婚して、美紀子と結婚しようと画策したりする。かといって、いざ、そうしようとすると、妻とヨリを戻したりとか、一貫しない選択をする。泰太郎とも、不仲になったり、突然会いにいったり。
速雄、奈耶子、彌生の兄妹は帰国した。林次郎の家に、滞在する3人だが、速雄に病気が見つかり療養するために遠くへ行く。林次郎は、美紀子を養子にして、遺産相続者の一人にしてしまう。速雄は、それに反対する。
彌生は、欧州で泰太郎と親しくしていた。そのため、彌生は、泰太郎と結婚するつもりでいたのだが、美紀子と泰太郎の関係に嫉妬する。美紀子も、安藤と泰太郎、どちらのことを好きなのか迷う。
安藤は奉天に向かうつもりで、美紀子を連れて行こうとするが、泰太郎に止められ、失敗する。美紀子も一緒になろうと思って出奔に諾を出すが、止められて、自暴自棄になって、タクシーから飛び降りたりする。
遺産相続の問題に否を唱えようと戻ってきた速雄だが、美紀子が自分の子であることを知る。駆け落ち失敗で、モヤモヤしていた美紀子は、速雄と親子の再会を果たし、よくも悪くも、この家での立ち位置を自覚するようになる。遺産相続の問題は、これにて解消される。
速雄は、彌生と泰太郎の結婚を推し進める。泰太郎は、誰とも結婚する意思のないことを彌生には再三言う。ここに、美紀子が、彌生との結婚を勧める人として、速雄たちの意を汲んで、説得しに行く。泰太郎は、承諾して、ある場所に彌生一人で来てくれとことづけする。
けれども、そこに来たのは美紀子で、彌生はいかないと強情を張ったと説明される。何かの罰を受けたのかと泰太郎が思ったところで幕は閉じる。
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もっと長い小説である。
それぞれのエピソードは、もう少し緊密に入り組んでいる。
だから、明確なストーリーラインが掴みづらい。
泰太郎の恋愛物語でも、成長物語でもない。
どちらかといえば、美紀子のマイ・フェア・レディ的成長物語の趣が強い。
奈耶子は、特に活躍しないし、速雄は、安藤に美紀子を預け安藤の妻の「梨花子」との過去を仄めかすけれども、中途半端でスッキリはしない。速雄も、病気が治ったのかどうなのかも、よくわからない。彌生も、重要な役回りだけれども、受け身に書かれている。安藤は、気分の上下動が激しく、行動原理がはっきりしない。
一言でいって、始まりの動揺が終わりでスッキリと回収されない、現実そのもののような小説となっている。いわゆる通俗小説としては、カタルシスを与えないし、実験小説としては、題材にしても方法にしても、尖りきっていない、そういう印象を与える。
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『春園』は、横光利一が欧州旅行に行ったあと、『主婦之友』に連載された、最初の長編小説だという(←これは解説の河上徹太郎の言葉をそのまま参照して書いたが、のちに誤りで、刊行年順にすると『上海』や『寝園』の方が早い、なんでこんな書き間違いをしたんだろうかと訝しむ)。昭和12年4月に完成したという。西暦になおすと、1937年4月である。一般的に、日中戦争期のスタートとされる1937年は、近代文学史的には文芸復興期と呼ばれる、割と出版事情が良い時期の晩期に属していた。
政治状況は混迷を極めながらも、満洲国の成立によって、国内経済状況は好転しつつあり、軍と産業界は、この状況下で連携を強めていった。賀屋興宣という蔵相が進めた軍事財政。(実質)植民地をブロック経済化しつつ、日米開戦は回避し、どちらかといえばソ連と対峙する方針のもと、財界の意向を反映した予算内容だった。
言論界は、こうした政治状況に対して、翼賛か批判的対峙か、そのグラデーションの中にあった。もちろん、黙々と商品としての小説を書き続ける人もいたが、言論統制が徐々に強まる中で、政治批判のみならず、戦争遂行に不適合な振る舞いも書きづらくなる。そんな中の作品。
心理小説とか、横光が唱えた「純粋小説論」の実践だとか、色々言い募ることはできるけれども、若い時にはまだるっこしくて読む気になれなかった横光の長編作品を、今、読み通すことができた、ということに自分自身驚いている。
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『春園』を読んで、自分自身何が変わったか。
横光利一がやりたかったこと(だと思う自分の認識)の理解が、少し増した。
『春園』を読んで、どこが面白かったか。
泰太郎の友人、安藤の心理が急に移り変わり、それに対する説明が一切ないところが面白い。確かに、人間は、安藤のような唐突な心理の変化を成すな、と思った。
『春園』の何が、おすすめだといえるか。
戦前の比較的裕福な階級の子弟の、ノンシャランな雰囲気が知れるのがいい。同じでは全然ないけれど、『陽はまた昇る』とか『グレート・ギャツビー』とか、雰囲気はそれに近いような気も。気のせいか。
また、説明のない心理小説として、日本ではなかなか試みられなかった長編小説の試みの一つとしては面白い。アンドレ・ジッドの『贋金つくり』が一つ参照されていると思うけれど、キリスト教的モラルと近代的ヒューマニズムとの対決ではなくて、東洋と西洋との対決が、小説の軸になっていると思う。そこに興味を持つ人なら。
『主婦之友』連載ということで、あまり、誇大的な思想小説にするわけにはいかなかったのだろう。その辺、難しい。