志賀直哉「小僧の神様」
バスが来ぬ 歩き出したら 抜かされる
みなさんの更新頻度に負けないように頑張りたいのですが、書くことも少なくなってきました。日常の一コマ一コマを有意義に生きたいと思うものの、語り得ないようなネガティブな出来事もたくさんあり、それらを提示した方がフェアなのかどうか日々迷います。
しかもそれらは、本当にどうでもいい出来事で、こんな事共に心を乱されるのは、未だ修養道半ばだなあという気持ちにさせられます。
暖かな陽気になったものの、花粉飛散も出だしが早かったせいで、意外にも終息が早いのではないか、と思わされたことは朗報です。ただ、フェキソは効かないので、ロラタジン、デザレックス、ビラノア、この辺りを使います。ロラタジンは眠くならないので、今はそれを完備しています。そのせいで花粉が抑えられているだけなのかもしれません。
バスの待ち時間、電車の待ち時間、電車に乗ってる時間に一本書いちゃうぞーといきんでも、なかなかネタが見つからないこともあります。そういう時は何か短編を読んで、その感想を記してきたのですが、ダッシュボードのビュー数とスキ数の割合を取って並べてみたら、それらのテーマは案外数値が低くて、ちょっと悩ましく思った次第です。
しかし、多少なりともストックで書けるのは小説感想くらいなので、細々と続けていきたいと思います。
それなりの評価とスキ数をいただいているのは、どちらかというと、街歩き関係の記事で、いわゆる「conglaturation」もおおよそいただいており、「河畔砂丘」の記事だけ外してしまったので、スケールの小ささと取材時間の落差にいささか落胆しておる次第です。
ただ、羽生市探訪の記事については望外のビュー数をいただきまして、なんともありがたく思います。小林秀三さんも草葉の陰で喜んでおられると思います。
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さて、土曜日とはいえ4月1日で、出勤がてらエイプリルフールとして「今日でnoteやめます!」などと冗談を飛ばしてみようかと企画はしましたが、むしろそれを嘘だと思ってくれない、いやそれ以上に「どうでもいい」という反応を見てしまうのは、悲しいのでそういう冗談を言うことは控えました。
昔からきっと否定していただけるだろうと思って、自己卑下を提示してみると、案外納得されてしまい、より落ち込むということが重なったので、それ以来は自己卑下をする時には、「あなたにはそれを否定してほしいのです」と明確に言ってから始めることにしています。ただ、自分の言い出した事で自分が傷ついて、相手も面倒臭がらせるのは、ただのコミュニケーションの空転ですから。
人とのハイコンテクストなやり取りに疲れました。特に若い頃は、好きな人に好きだと言い出しかねて、言わずにいることも多くありました。また、言ってもかなりタイミングに遅れて言ってしまい、その時にはすでに恋人ができていたりして、後悔することもままありました。その点は以降、素直になるよう心がけ、余計な駆け引きはしないことで、それなりにうまくいくことも増えました。
また、引き際も肝心で、ダメなものにいつまでも執着しても仕方がないと考えるようになりました。引き際の鮮やかさは、最後の最後で相手に好印象を与えるチャンスですので、くれぐれも執着せぬように、あるいは執着したそぶりを気取られぬようにしてください。老爺心からの忠告です。
大抵の恋心は、塗り替えることができてしまうものです。悲しいことにようにも思えますが、同時にワクワクすることでもあると思います。ゲームオーバーではないのですから。
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志賀直哉の「小僧の神様」は文庫のタイトルになっていることも多い、彼の短編の押しも押されもせぬ代表作です。
小僧が寿司を食おうと思って体よくあしらわれた光景を見て、慈悲の心を催したおじさんが、段取りを組んで小僧に腹一杯寿司を食わせてやるものの、おじさんはどうも要らぬことをしてしまったような不快な気持ちになる一方で、小僧は天恵としてその経験を崇め、おじさんを神のようにみなすようになっていくという短編です。
誰かの視点で、感情移入して読むというよりは、
野良猫に餌付けして、その結果野良猫が獲物を取らなくなって餓死してしまったみたいな構造を教える話
のヴァリアント(変奏)として読む方が望ましいのかと思います。
施し施され、という一瞬の関わりに過ぎぬ事態から、施したおじさんはその経験を満足よりも不快さとして次第に考えるようになって、小僧は逆にその天恵の訪れをより超越的に考えるようになるという不思議な対人コミュニケーションの面白さを客観的に描き出すことに成功した作家としての志賀直哉が見出せると思います。
「あしながおじさん」のように、施し施されが、良心や市民的理性の再生産構造になっていれば全く問題ないのですが、施せば施すほど、階級の差異を感じる心の距離を固着させてしまったら、どうしようもないものです。いくら善意で施しても、それは分断を煽るものだという解釈を、施されている方がしていたら、じゃあもう勝手にやんなとなってしまうこともありうるので、いいところで手を打ちながらお互いが漸進的に改良していくのが大事かと思います。善行と善意をセットで提示することまでを求めたら、究極破綻することでしょう。善行は悪意から発して、それが思いがけなく改善につながることもあるはずで、それが世界や社会の不思議なのだと思います。
ただ、志賀の「小僧の神様」は、こうした構図よりもさらに「小僧」の側の心的構造の捩れに迫っていて、面白いと思います。
なんだろう、好きをアピールすればするほど嫌われるというダフネ神話のような悪循環ではなく、施したおじさんは自分の善意にいやらしいものを感じて小僧から距離を取る一方、施された小僧はおじさんを不可知の神のように崇め始めるというコミュニケーションの空転ぶり、こそが「小僧の神様」の面白みなのではないでしょうか。
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ここで終われば、久しぶりに何か書けたね、と自分で自分を労ってやることもできたのですが、これを再度、客観視のフィルターにかけてみようとするのが自分の悪いところであり、良いところであると思います。
日常の一コマから、ちょっとした人生の秘鑰の開示にスライドし、空転という言葉を強調して、「小僧の神様」のあらすじと、その読みをコミュニケーションの空転に絡めていこうとする意図は6割がた達成できました。
いやらしい言い方ですが、ちょっとした社会に対する見方も合わせて提示できていて、程よくまとまった感想文の草稿ができたと自負するものです。
しかし、一方で、空転の構造が、説明しきれていないきらいもあります。互酬的な循環、悪循環、空転といった3つのパターンを、本来は補助線として提示することで、よりわかりやすいものになったかとも思います。それを書く時間と能力は、今の私にはないことを情けなく思われます。
ダフネ神話とは何かということももっと説明してもいいし、善意と善行のセットとはどういうことかを具体例を含めて記すことも必要でしたでしょう。何より切り詰めた「小僧の神様」のあらすじが、これでいいものか、と再考する必要もあるでしょう。
そういう点で6割がた、草稿レベルということは、もはや確認するべくもないです。ねちっこい書き方で、こういう無限後退していく反省のありようを見せつけることが、率直に書くことの意志を沮喪させることの危険性もないわけではないですが、設計図と意図をできる限り開示しておきたいということも、合わせて私の誠意として、書き記しておきたいと思っております。
志賀直哉の最晩年の一作に「盲亀浮木」というのがあります。その内容を同じように書き記していくと、長々と描き続けてしまうので、その作品の末尾だけを引用して締めようと思います。
志賀は三つの思い出話に共通するセレンディピティのようなものを、以前なら小説として描き得たと思いながら、80を超えた今となっては、それもなし得ないという諦念として次のように書いております。
自身に素直であるということは、自らの限界も含めて吐露することだという志賀のスタイルを、私自身の書き物に適用して記してみたというのが、今回のエッセイの本統の種明かしですが、いかがでしたでしょうか。