Untitled #3 〜横光利一の短編選択〜
岩波文庫の横光利一巻に付された通し番号は「75」で、刊行順に「75‐1」「75‐2」…と続いていくはずです。
「75‐1」は『日輪・春は馬車に乗って』で、
「75‐2」は『上海』です。
「75‐4」が『旅愁』(上)
「75‐5」が『旅愁』(下)
になっています。
気づくと、「75‐3」がありません。
「75‐3」はなんだろう。
そう思って、古い岩波文庫を探しました。しかし、それっぽいのはなく、あったのは『機械 他九篇』というやつです。
しかし、ここで内容を見ると、???となってしまいます。
この『機械』は、75-3ではなく、『日輪 春は馬車に乗って』の旧版でしょう。
内容の比較をします。
共通するのは「火」「蠅」「御身」「春は馬車に乗って」「機械」です。少なくとも、短編で横光利一といったら、この5つが時代を超えてもなにかを示唆するという判断から選ばれたのでしょう。
「火」は、志賀直哉の影響から発した作風の確認でしょうか。
「蠅」は、いわば映画的対比、モダニズム的対照、そんな視点における横光の新しさを示唆するものです。
「御身」は、横光的すれ違い、を代表するものでしょうか。
「春は馬車に乗って」はいわゆる病妻ものの代表です。
そして、「機械」は、新心理主義的手法で作風を大胆に変更して以降の作品となります。
横光には歴史モノというジャンルもあります。
古い版にある「碑文」は、おそらくはその代表となるでしょう。ガルタンの民が全滅する、そして、そのあとには山河が残される、そんなカタストロフのイメージが書かれています。こうした超越的な視点で書かれた短編は複数あります。
新しい版では、「ナポレオンと田虫」「日輪」が、歴史モノを代表します。「碑文」は暗い。永井豪のデビルマンの終わりくらい暗い、ジョージ秋山のザ・ムーンくらい暗い。だから、もうちょっとユーモアのある「ナポレオンと田虫」にしようぜ、という選択圧があっても、いたしかたないと思いました。
古い版の「蛾はどこにでもゐる」は、病妻モノの系列だと思うのですが、私は、暗いのと怪談っぽいので割と好きな短編です。
《バッド・エンド横光》と私は横光利一を呼ぶんですが、「蠅」はまさにその代表です。旧版の「碑文」も、バッド・エンド横光の名をほしいままにする短編です。
そして、新版に選ばれた「赤い着物」。これこそ、バッドエンド横光の名を不朽のものにした短編として選ばれたのでしょう。
「赤い着物」は、なんとなくぼんやりした子がいて、そこに幼児を連れた親が来る。子ども(幼児)をほったらかしにしているから(子が)笑かそうと思って、子が色々サービスしていると、階段から落っこちて(子が)頭を打つ、それにも幼児はキャッキャッと笑っている、えへへ。。。なんて子は思っていた晩に死ぬ。親は何で死んだのかよくわからない、幼児を連れた親もわからない。
そんな話。
皆さんにはこれから「バッド・エンド横光」とおぼえておいてほしいのです。
次に「すれ違い横光」という側面です。
旧版の「火のついた煙草」は、モダニズムな感じの作風の代表でしょう。テーマも「すれ違い横光」なのですが、横光にとっての「すれ違い」モチーフは、マルクス主義文学のアウフヘーベン的理想に反発したものなのではないでしょうか。
対立が高次のものへ移行するとは、限らない。三つ巴、四つの軸で関係が固着する、そんな図形的な見取り図が、横光の作品の人間関係には色濃く浮き彫りになっていると思います。
「花園の思想」は、旧版の「火のついた煙草」に対応した、モダニズム系の作風の代表として取り上げられていると思います。病妻モノでもあるわけですが、病妻との間の会話に、とにかくすれ違いが多く起こる。このすれ違いの対話こそ、横光がみている世界のありようだったのか、と気付かされます。
これは長編の『春園』『寝園』でもそうなのですが、とにかく、登場人物たちが、相手の言葉を理解したうえで発話しない。お互いに、理解が半端で、そこにどういうコミュニケーションがあるのか、ということがわよくわからないまま話が進んでいく箇所が極めて多い。
でも、それが、現実なのかもしれないですね。
旧版の「時間」は、「機械」の延長上にある作品で、機械は、すれ違いが、一つのメカニズムを形成しているようにみえる、という話でした。「時間」は、その発想を延長したもの、だと思います。いや、実はちゃんと読めてない。
以上、横光利一の特徴2つ、
「バッド・エンド横光」
「すれ違い横光」
からみた、旧版と新版の短編集の違いでした。