谷崎潤一郎「富美子の足」がやりたいこと

集英社文庫の『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』は、なかなかよく出来たアンソロジーですね。

ここに収められている短編全てに、フェティッシュが含まれているかと問われたら、そうも言い難い部分もあるのですけれど、谷崎(大先生と呼ばせて頂きたい、大谷崎ではなく、「大先生」です)の振る舞いから、書くことはフェティッシュたらざるを得ない、という真実を会得するには、充分な内容を持つのではないかと思われます。

その中でも、「富美子の足」という短編は、圧巻です。したがって、今回は、その短編を紹介してみたいと思います。

「富美子の足」は、女性の《足=フット》に性的興奮を覚えるご隠居さんと、その家に出入りする画学生が、同じ性癖を共有していたことに気づくことから始まります。

ご隠居さんは、すでに病気がちでして、画学生に対し、新たに妾となった「富美子」の足を描いてくれとお願いします。画学生は、当初固辞しますが、ご隠居さんが指示したポーズをとった富美子の足に、思わず魅せられてしまいます。

このポーズは柳亭種彦の偐紫田舎源氏の挿絵として、「国貞」(豊国)が描いた女性に由来するものだそうです。

国会のデジタルライブラリーで、そのポーズが実際どうなのか探してみましたが、通読してみないと、どうも見つけられそうもありません。

この作品の実写映画でも加藤ローサさんが「富美子の足」を演じておられるようでして、そのポーズはネット画像検索で見つけられましたが、「で…何が…」と思われるようなものでありました。

さすがの私も、脚=レッグならいざしらず、足=フットに性的興奮を感じたことはありません。だから、隠居にしても画学生にしても彼らの興奮に共感することはできない、はずなのですが…。

フェティッシュの密度


《富美子がこちらを向いた》という事実があるとしましょう。

それを宇之吉という話者を通して、大先生は、以下のように書いています。

僕が座敷にはいって行くと、女は片肘を炬燵櫓にかけて、ずらりと膝頭を少し崩して、僕の方へ首と胴とを捻じ向けました。

この「首と胴とを捻じ向け」る、という表現をめぐって、さらなる言葉が付け加わります。

「首」と「胴」を捻じ向けたというのは、その時この二つの物がいかにも別々に、一つ一つの美しさを以て僕の眼に印象されたからです。一と口に「体」を捻じ向けたといったのでは、どうしてもその時の僕の印象をいい現わすことが出来ないからです。つまり、そのしなやかな、すっきりした首と、細い柔らかい痩せぎすな胴とが、一つの波から次の波へゆらゆら波紋が伝わって行くように動いたのです。そうしてちゃんとこっちを向いてしまった後までも、まだその波紋が、体のある部分に、たとえばその長い項から抜き衣紋にした肩のあたりに、しばらくはゆらゆらと揺れて残っているような感じでした。それ程その女の姿はなよなよとなまめかしく優しく思われたのでした。そう思われた一つの原因は、恐らくその姿を包んでいる衣裳のせいであったかもしれません。彼女は近頃の派手な流行からみるとむしろ時代おくれといってもいいくらいな、地味な唐桟柄の襟附のお召を着て、しかも裾を長く曳いていたのです。


あれあれ!随分言葉が連ねられているじゃありませんか。この表面をすべる《話者=宇之吉》の眼のしつこさといったらありません。ひたすら表面を愛玩するのみで、話がなかなか進んで行かない事態に、むしろ驚きさえ覚えました。

それにしても、対象を眺め尽くすというのは、このように言葉のギッチリ詰まった体験だったのでしょうか。

《富美子の顔》の印象を描く段になってのことです。

顔の輪郭は卵なりに頤の方が尖っていて、頬は心持ち殺げ過ぎていましたけれど、さりとてコチコチした堅い感じではなく、物をいうたびごとに唇の運動に引張られて肉がふっくりとたるむように波を打つ塩梅などは、むしろ柔かい、たっぷりとした感じを起させました。額も大分詰まっている方で、生え際も富士額といい得る程に揃ってはいないで、富士形の頂上からわずかしたの前髪の左右の辺に、両方とも同じように少しく脱け上った箇所があって、それからまたもとの富士形にずうッと眼尻の方へ開いているのでした。が、富士なりの整形を破って、直線がちょいと崩されている部分、真黒な髪の地の間に、白い額の一部分がぼうッと霞んで、青々と湾入しているところ、─それが、面積の狭い額にいい知れぬ変化とゆとりを与えているばかりでなく、髪の毛の黒さを一層引き立たせていることも事実でした。眉は太く吊り上っている方でしたが、幸い頭の髪と反対に毛の地が薄く赤味を帯びているので、そんなに険しい感じは起させはしませんでした。

これで終わりではありません。この調子で、優に4倍の量の文章が、「富美子の顔」の描写に向けられていきます。フェティシズムとは、一体何でありましょう。対象への偏執的な愛着という意味では、現実には無時間な気がするのですが、文章でそれを表現しようとすると、対象を描かざるを得ないことで、時間が流れます。現実には無時間、脱分析的、表象においては有時間、分析的、このギャップを楽しめるかどうか、を『富美子の足』は問いかけているとも言えるのです。

谷崎大先生がやろうとしていること

フェティシズムはいわば《表面に愛着することへの拘泥》でありましょう。その「拘泥」の時間と密度がどれほどのものかということを、大先生は言葉で表現しています。視覚化することで生まれる言葉の密度で、観察者の内面に何がどれほど嵐のように吹き荒れたか、ということを明らかにするかのようです。

観るということは、直観的で、言語的なものが介在しない経験のように感じられます。だから視覚経験にとって、言語は必要なものではなく、本質的にはノイズなのだといえます。ノイズによって視覚経験を再現しようとしても、当然ながら、どこまでいっても取り落としてしまうものがある、ということは、言語的生産物である小説の条件であると言えるでしょう。

言語によって視覚的世界が再現できると私たちはつい素朴に考えがちだし、再現されていると信じがちです。しかし、言語によって再現された脳内のスクリーンに投影されているのはやはり「表象」であると思います。私たちの脳の中すでにある価値観や過去の体験が補助的に織り込まれて再構築された映像(=representation:表象、再現、再演、代行)にほかなりません。

「私は校庭を走った」という文が脳内で映像として再現される時、どうしても「校庭」のイメージは私たちの体験の枠内から汲み出されるしかない、というわけです。「足」とて、そうでしょう。

だから「足」と言われた時、私たちは今まで見てきた足の枠内から逃れられません。大先生は、そのような枠を言語を用いて壊し、織り上げ、創造する、ことを、密度の高い描写を丹念に積み重ねることによって行おうとしているわけです。

これを「フェティシズム」と言ってしまうのは、大先生がやろうとしている凄いことを、私たちの体験の枠内で解釈しようとしているからにほかなりません。

え、ところで、その「足」の描写…ですって…これが長いんですよ。

引用した方がいいですか…?

あ、では、ちょびっとだけ、行かせていただきます。

真直ぐな、白木を丹念に削り上げたようにすっきりとした脛が、先へ行くほど段々と細まって、踝の所で一旦きゅっと引き締まってから、今度は緩やかな傾斜を作って柔らかな足の甲となり、その傾斜の尽きる所に、五本の趾が小趾から順々に少しずつ前へ伸びて、親趾の突端を目がけつつ並んでいる形は、お富美さんの顔だちよりもずっと美しく僕には感ぜられました。

と、ここから、5ページ以上、説明なども含めて「富美子の足」が描写されるのです。もう、ここにあるのは「足」なのでしょうか。「足」ならざる何か、なのでしょうか。

いずれにいたしましても、大先生が素晴らしいのは、本来は無時間的に経験される視覚的悦びというものに、言葉を規則的に配置していくことで経験をただ再現(=表象)するのではなく、私たちの中に過剰な言語配列をもちいて新たな経験を創出してしまうという手際ゆえ、なのではないでしょうか。

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