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夏目漱石『明暗』=廃墟にラブ・レター

2月中くらいからちびちび読み出して、さっき読み終わった夏目漱石未完の大作で、水村美苗氏による続編も出ているくらいに世評は高いということは実は大人になってから知って、そもそも中学生のときの国語の教科書の文学史の付録には、漱石の晩年は暗い作風が多くと、さすがネアカの国バブルとばかりに、やけにハイテンションな作品ばかりが持ち上げられる風潮の中で、漱石の後期作品がどこか重苦しい風情で表象されていたことに影響を受けた僕は、のちに現れる晩年マニアとしての気質に全く気づくこともなく、ただひたすら『坊ちゃん』や『三四郎』といった一見明るい風を装った作品にのみ目が入って、当然ながら『明暗』を読むリストに入れることもなく、未完だからということで買ったはいいものの奥にしまいこみ、同じく未完の多い宮沢賢治についてはあれやこれやと縷々述べながら、『明暗』については一顧だにしなかった自分を恥じるくらいに、今回の『明暗』を読むという経験は幸福で、漱石の展開と技量をまざまざを見せつけられた気がして、どうにも気持ちが浮かれているのか沈んでいるのかわからないくらい、読後感の強さ激しさを思い出しながらあらすじについて言えば、イケメンの津田というアラサー男子が、結婚寸前までいきながら振られた清子のことを忘れられず、いや忘れようとして心の奥底で溶かしてしまうつもりで、お延というこれまた才気ある美人と結婚し生活をするも、心の奥底で溶けていないものだから、生活も関係もギクシャクしてきて、しかもそこに清子とのあれこれを知る友人の小林なる男が、金を強請るためにお延の元で津田と清子の話を仄めかしたりして、それでお延は津田の愛情を疑いつつそれに縋ろうとするものだから、津田は困惑するも仲介の労をとってくれた吉川夫人に、あんたいつまでもそのことウジウジ考えてるんなら本人に直接聞いてきなさいよと煽られ、それは自分も本当は望むところだったと温泉場に出かけ、暗闇の中で鏡の前に立ちなんて俺ってイケメンと思おうとしたら若干年老いた自分を見つけ、一瞬心が清子を忘れたところに清子が現れてビックリして、翌日清子のもとにアレコレ聞こうと訊ねていくもののはぐらかされて、というところで夏目漱石が胃潰瘍の悪化で亡くなったものだから、未完のまま残されたという事情を持つ作品である、と私は当然言いたいところなんだけれども、そんな言い方でまとめてしまっていいのかという思いが募り、その理由を自分のうちに求めてみたところ、これは恋愛小説とは言い切れないという結論を書きたいので、こうして筆を取ってみたのだけれども、実際書き連ねていたら途中から自分の出した結論に自信がなくなってきて、韜晦して誤魔化そうとして、こんな長い一文を書き記すことになったのだけれども、それは所詮どこからともなく聞こえてくる揶揄や挑発の声に対する応答にすぎなくて、それもまた全然自分の勘違いに過ぎないのかもしれず、どこまでいっても俺はグルグルと自分のことを自問自答しているだけだなと自嘲した瞬間にそれは津田だと思い至り、『明暗』は津田というダメな大人の心理メカニズムを剔抉した作品で、ダメ男文学の高峰の一つに数え上げてもいいのではないかと気分は高揚、すっかり気をよくして『明暗』についての評価を書きながら、どうして国語の教科書は『明暗』は言うに及ばず他の後期作品も腐していたのかしらと考えていたら、きっと中学生には「馬鹿」でいてほしいということだったのだなと今更ながら思い返し、それはつまり「馬鹿」というのは無知とは違って、ルフィの言うところの先読みをしない夢をみることのできる体勢であり、津田はだから清子に会いにいくところで「馬鹿になるしかないか、でも馬鹿にはなりたくない、俺が馬鹿になるはずがない」と自問自答をするシーンを読んで、ああこれ超わかる、と思ったところで急に、『明暗』は小説論だと思って、要するにすべての小説は誰かに向けたラブ・レターなんじゃないかと思って、おいおいまてよ飛躍がありすぎるぜと思われた方に少し説明を申し上げようと思うのですが、当然それは説明しきれるわけもないのだけれども、人間の言語活動はたいてい誰かに向けて行われるものだから、それが明確な人もいれば、不明確な人もいて、小説はその不明確なラブ・レターの際たるものなんじゃないかということを漱石は津田と清子を通して言おうとしてたなんて、どうでもいい感想が浮かんでくると同時にこの世界はだからラブ・レターで満ちていて、だとするとこのnoteに浮かんでいるたくさんの言葉は全部ラブ・レターなんだと思うと、この間Youtubeで観ていた変なフェイクドキュメンタリーで、廃墟の中にいろんな人のスナップ写真がたくさん遺されていて、それがじゃあ、全部ラブ・レターだったらどうだろうと妄想し始めて、き・きもいと思いつつ、なんだか甘いような酸っぱいような気もしていて、廃墟に残されたたくさんのラブ・レターを読む男という設定でこんど小説を書いてやろうと思って、そんな作品が他にないかと漁っていると、とりあえず見つからなかったので誰か知っている人いますかー?と虚空に向かって呼び掛けてみるものの解答はなく、きっと漱石も『彼岸過迄』を書いたときはこんな気持ちだったのかもしれないなあと思いなすなかで、noteにこれだけラブ・レターがあり、誰もがラブ・レターだと思っているわけでもなく、いやそれはおそらくはラブ・レターなんだけれども、伝え方が上手くない人、誰に向けてるのか分からない人、みんなに向けて書いてどとかなくて落ち込む人、怒りでラブを表現しようとしている恥ずかしがりの人、真面目に書くことでラブを隠そうとしている人、書くことに対して批判したり分析したりすることでラブが表明されていることを隠そうとする人、ああ、結局書くということはラブ・レターにほかならないという多分事実に、ちょっと恥ずかしくなって一カ月くらい悩んで、それで『明暗』を読んだものだから、内容とシンクロしながら『明暗』にそれを投影して、じゃあお前はこのわかりにくい一筆書きを誰にラブ・レターしているのかと問われたら、○○○〇さんあなたですよ、と、絶対○○さんが「え、俺?なんで?」って、思うだろうと予想しながら隠してみたりもするんだけど、別にラブはここでは異性関係に限ったことではなくて、それでもやっぱり誰か対象がいるんだよ、ということを中学校の国語教科書は知られたくなかったから、それで大人になってほしくなかったから、きっと、『明暗』を憂鬱な小説呼ばわりしたんじゃないかなあ、と思って教科書執筆者のラブをなんかわかってみたりしながら、畢竟、読むこととはラブ・レターを受けとることであり、それを受け入れたり拒絶したりすることで、結構ヤバイことだよなあ、ヤバいことが公然と行われていることに震撼する、そんな日々の中で『明暗』を読んでいました、とどうやって3000字でオチをつけるのか迷いながら、やっとここまで電車の中で思案しながら、たどり着いたというわけでして、たどりついたらいつも雨降り、という雰囲気で、みなの寒い視線を浴びながら、やっぱ寒いよね、でも俺って面倒なオッサンなんで、面倒なキャラでこれからも通していこうと思った昨日、『青音色』第2号よろしくね。

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