小林信彦『回想の江戸川乱歩』

面白かった。

今までの自分の読んできた乱歩文献の中で、一番面白かったかもしれない。

この中で、小林信彦が一時期、上越の高田に疎開して、旧制高田中学校で学んだ時期があったことを知った。年齢からして、先年亡くなった義父の一つ上の世代なので、どこかでニアミスをしているのかもしれないと思った。義父は、新制高田高校に学んでいるから、制度の移行期にあたり、把握が難しい。

さて、ぼくは昭和二十三年三月三十一日から現在まで一日も欠かさずに日記をつけているが、それ以前、昭和二十一年七月二十日から九月一日までの日記(学校提出用)が残っているので見ると、当時、どっと出た探偵小説を実にまめに読んでいるのに驚く。ぼくは新潟県立高田中学校の二年生だった。

小林信彦の疎開での嫌な体験を描いた『冬の神話』も、もう手に入れるのは難しいものだけれども、再販を願う。

小林信彦氏の人生は、私も共感するところが多である。彼ほど突き詰めることができず、また、才能にも乏しかったから、こんな感じになっているが、wikiで氏の前半生をみると、なんともいえない懐かしさというか、エンパシーを思う。

そんな小林氏が起死回生、『ヒッチコックマガジン』の日本版の編集長を拝命した。その役割を預けたのが、江戸川乱歩であった。

『回想』はちょうど、このヒッチコックマガジン時代の記憶にあたる。

『ヒッチコック・マガジン』は、『平凡パンチ』につながる要素を持っており、『新青年』(~『宝石』)~『ヒッチコックマガジン』~『平凡パンチ』と、ある意味でおおざっぱにいうと、日本の男性サブカルチャーの流れをつくってきた。

そんな小林信彦氏が、乱歩を思い出す。

そういうわけで、『宝石』はとにかく江戸川乱歩の顔の力でしたね。それまではほとんど原稿料も払っていなかったんですが、それを少しでも払えるようにした。で、やっていくうちに、乱歩さんは熱心なんだけど、下でやってる者の中には、ダラダラしている連中もいてね(笑)。でも乱歩さんは、非常に面倒見のいい人で、クビにできないんです。そのとき六十四歳でした。

乱歩の面倒見のよさ、みたいなものは、奥さんの回想でもあった。会社時代の友達が何人も居候していて、みかねて奥さんがあの人たち出ていかせたら、と言ったら、お前の方が後に来たんじゃないか、出ていくならお前の方だよ、とか言ったとかなんとか。

乱歩は細かいところまで見る人だった。

ある程度軌道に乗るまで一年くらいかかりましたね。正式にやってくれと言われたのが、一月の終わりでしょう。で、創刊が六月二十二日。その間に、大手取次の東販や日販に挨拶したり、いろいろありますよね。雑誌が出るまでのハードルが。それをぼく、ひとりで全部やったんですよ。仕切りとかなんとか何も知らないんだけど、二十六歳の怖いもの知らずでね。勿論、乱歩さんからの、ああしてこうしてという指示はものすごく細かくあった。こうやると、あの人物は気を悪くするから、こうやってとか、そういうことについて乱歩さんは、すごいんですよ。こうやったら、相手がどういうふうに反応するかっていうことについて。

乱歩は谷崎とは、どこか通づるものがあったらしい。

あの人は、谷崎潤一郎と宇野浩二を尊敬してるんだけど、谷崎潤一郎を『宝石』の対談とか座談会に、何とか引っ張りだそうとしていたね。谷崎潤一郎って、三島由紀夫が<自分の売り方を一番知ってる人>って言ったとおり、そういう席には絶対出てこなかった。江戸川乱歩にはとても好意を持ってるんですよ。だけど、出てこなかった。

谷崎と乱歩の亡くなった時期は、ほぼ同じらしい。

だって、先輩だもの、谷崎潤一郎は日本で最初に推理小説を書いた文士だからね。二人は、二日違いくらいの差で亡くなるんだよね。(注・乱歩は一九六五年七月二八日、潤一郎は同年同月三十日に死去。)江戸川乱歩さんとこの出棺を待ってるところに、「谷崎先生が亡くなりました」っていう電話が入ったの覚えてるもの。

江戸川乱歩は、背の高い人だったらしい。

泰彦 乱歩さんて、やさしい大入道みたいな人だったね。
信彦 ほんとに大入道ですよ。しかも着流しというか、和服でしょう。それでこんな大きい人だからね。一メートル八〇近くはあったと思う。
泰彦 顔面神経痛の大入道ということで、ちょっと異様な感じはしたけどね。別に悪い印象じゃないんだけど。
信彦 いつも顔を押さえていたからね。
泰彦 そう、そう。いつもこうやってマッサージしてるんだよ。やっぱり偉人というのは迫力があると思ったね。普通の人じゃないなあと思いながら見ていたけれど、でも、やさしいんだよ。いろいろ細かく、出したものを飲みなさいとか、食べなさいとか、そう固くならないで気楽にとかってね。

これは小林信彦氏と泰彦氏の対談

乱歩は、モダニズム期に流行した「エロ・グロ・ナンセンス」の作家だと思われている。けれども、実はモダニズムがあまり好きではなかったらしい。

今考えてみると、乱歩さんは、根本的にモダニズムが嫌いなんですよ。作品でも分かるとおりね。昭和初年に『新青年』と一時的に絶縁状態になったというのも、『新青年』が推理小説専門じゃなくて、モダニズムに走ったからでしょう。

小林信彦氏の乱歩評には、とても鋭いところがある。

まず、乱歩作品は、青春の陰画だということ。

もっとも、ぼくにしても、乱歩や横溝正史ばかりを読んでいたわけではない。むしろ、乱歩は、古くは阿部次郎、近くは武者小路、堀辰雄、太宰治といった青春の書物の陰画として読み継がれたからこそ稀有のロング・セラーになったのではないか。ぼくの場合を考えても、田舎の地主の書庫でかくれて読んだ戦前版の『パノラマ島奇談』において、もっとも乱歩にふさわしい読み方をしたと言えるかも知れない。乱歩作品には、思春期のたよりなさ、孤独、疎外感、異性への憧れ、そういった情念のマイナスの部分をひきつける強い磁力がある。

そして、つねに懐かしさのようなものが仕掛けとして含まれている、という。

それでも、『猟奇の果』の初めの方で九段の見世物をならべてみせるあたりの<なつかしさ>は、作品の出来とは別に、やはり大したものである。

それは、『孤島の鬼』の暗号文の、

神と仏がおうたなら
巽の鬼をうちやぶり
弥陀の利益をさぐるべし
六道の辻に迷うなよ

という不気味な文句にも通じ、作者自身が嫌ったらしい『盲獣』(ぼくは昨今のアングラ、サイケの風潮にあまりにもぴったりなのに驚き、面白かったが─)の、女三人がだんまりで「子取ろ子取ろ」のように歩く件りのこわさにも通じる。

さびしさ、なつかしさ、こわさが一つになったこの世界(それは質こそちがえ、中里介山にも、水上勉にもある)は、どうやら、ぼくらの血のなかにあるのではないか。

この「さびしさ、なつかしさ、こわさ」のセットは、近代がある意味で振り捨ようとしているものだろう。

近代から生み出された探偵小説・推理小説というフォーマットの中で、近代が振り捨てようとしている「さびしさ、なつかしさ、こわさ」を表現しようとしている矛盾が、江戸川乱歩の本質であり、その矛盾を両立させようとしたのが、江戸川乱歩のやろうとしてきたこと、だったのだといえる。


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