「死?死とはあまりに無能である」夏目漱石『虞美人草』第三章
こんな細かく刻まなくても、漱石先生の『虞美人草』の世界にうまくチューンできれば、あとはおわりまでノンストップだ。でも、読みながら、なんとなく引用したいフレーズがたくさんあることに気づいて、細かく刻むことにした。一日にこれほど細かく刻むことで、きっと誰もが読む気をなくしてしまうと思うが、もはや手前勝手のやぶれかぶれだから、後は野となれ山となれ、という気もしないでもない。
『虞美人草』の第三章は、またもや比叡山に登って、温泉宿に宿泊している宗近君と甲野さんの会話が中心になる。
宗近君はリアリストだ。甲野さんは哲学者だ。何やら難解なことを書きつけている。それを見て、宗近君は茶々を入れる。漱石もこうした役割としての人間と、人間本体のギャップを観察する力に長けており、それゆえに、落差に苦しんだんだろう。役割としての人間に開き直れる人間がうらやましく、そして滑稽に見えたのだろう。
なんだか意味のわからない小難しいことを書いている哲学者の甲野さんに、宗近君は茶々を入れる。
宗近くんは、一見単純である。後妻の母の目論見に、甲野さんは辟易している。そんな義母に、宗近君は同情的だ。なんなら、口添えのようなことを行ったりする。漱石は、このとき、甲野さんの心情を書こうとして、美味く書けずにいる。ヘンリー・ジェイムズのようにはいかない。けれども、努力をしている。
世間離れしている甲賀さんの心内表現としては、発話と落差がありすぎる。漱石が書いているように、心の中が展開されている。言いたいことはわかる。けれども、こんなに人の心の機微というか、空気がわかる哲学者が、いるのだろうか。その点、読者はちょっと立ち止まる。
でも、これでいい。『虞美人草』はこれでいいのだ。
面倒臭いのは引用のために引き写しする際に、独特の言葉が出て来るところである。
さて、
藤尾母(甲野さんにとっては義母)
藤尾(藤尾母の実子)
甲野さん(藤尾の兄)
宗近君(甲野さんの友人)
糸子(宗近君の妹。世話好き)
小野(甲野さんと宗近君の友人、藤尾の家庭教師)
小野は、甲野さんと宗近君に比叡山行きに誘われたけれども、ゴチャゴチャ行ってこなかった。藤尾と一緒にいる。
そんな感じの三章。