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「死?死とはあまりに無能である」夏目漱石『虞美人草』第三章

こんな細かく刻まなくても、漱石先生の『虞美人草』の世界にうまくチューンできれば、あとはおわりまでノンストップだ。でも、読みながら、なんとなく引用したいフレーズがたくさんあることに気づいて、細かく刻むことにした。一日にこれほど細かく刻むことで、きっと誰もが読む気をなくしてしまうと思うが、もはや手前勝手のやぶれかぶれだから、後は野となれ山となれ、という気もしないでもない。

『虞美人草』の第三章は、またもや比叡山に登って、温泉宿に宿泊している宗近君と甲野さんの会話が中心になる。

宗近君はリアリストだ。甲野さんは哲学者だ。何やら難解なことを書きつけている。それを見て、宗近君は茶々を入れる。漱石もこうした役割としての人間と、人間本体のギャップを観察する力に長けており、それゆえに、落差に苦しんだんだろう。役割としての人間に開き直れる人間がうらやましく、そして滑稽に見えたのだろう。

なんだか意味のわからない小難しいことを書いている哲学者の甲野さんに、宗近君は茶々を入れる。

「おい、どうも東山が奇麗に見えるぜ」
「そうか」
「おや鴨川を渉る奴がある。実に詩的だな。おい、川を渉る奴があるよ」
「渉ってもいいよ」
「君、布団着て寐たる姿やとか何とか云うが、どこに布団を着ている訳かな。一寸此所まで来て教えて呉れんかな」
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の水嵩が増して来たぜ。いやあ大変だ。橋が落ちそうだ。おい橋が落ちるよ」
「落ちても差し支えなしだ」
「落ちても差し支えなしだ?晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寐返りを打って、例の金襖の筍を横に眺め始めた。

宗近くんは、一見単純である。後妻の母の目論見に、甲野さんは辟易している。そんな義母に、宗近君は同情的だ。なんなら、口添えのようなことを行ったりする。漱石は、このとき、甲野さんの心情を書こうとして、美味く書けずにいる。ヘンリー・ジェイムズのようにはいかない。けれども、努力をしている。

甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば己にさえ欺かれる。況して己以外の人間の、利害の衢に、損失の塵除と被る、面の厚さは、容易には度られぬ。親しき友の、わが母を、そうと評するのは、面の内側で評するのか、又は外側でのみ云う了見か。己にさえ、己を欺く魔の、どこにか潜んでいる様な気持は免かれぬものを、無二の友達とは云え、父方の縁続きとは云え、迂闊には天機を洩らし難い。宗近の言は継母に対するわが心の底を見ん為の鎌か。見た上でも元の宗近ならばそれまでであるが、鎌を懸ける程の男ならば、思う通りを引き出した後で、どう引っ繰り返らぬとも保証は出来ん。宗近の言は真率なる彼の、裏表の見界なく、母の口占を一図にそれと信じたる反響か。平生のかれこれから推して見ると多分そうだろう。よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵の底に、詮索の錘を投げ込む様な卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者程人には使われ易い。卑劣と知って、人の手先にはならんでも、われに対する好意から、見損なった母の意を承けて、御互に面白からぬ結果を、必然の期程以前に、家庭のなかに打ち開ける事がないとも限らん。何れにしても入らぬ口は発くまい。

世間離れしている甲賀さんの心内表現としては、発話と落差がありすぎる。漱石が書いているように、心の中が展開されている。言いたいことはわかる。けれども、こんなに人の心の機微というか、空気がわかる哲学者が、いるのだろうか。その点、読者はちょっと立ち止まる。

でも、これでいい。『虞美人草』はこれでいいのだ。

面倒臭いのは引用のために引き写しする際に、独特の言葉が出て来るところである。

さて、

藤尾母(甲野さんにとっては義母)
藤尾(藤尾母の実子)
甲野さん(藤尾の兄)

宗近君(甲野さんの友人)
糸子(宗近君の妹。世話好き)

小野(甲野さんと宗近君の友人、藤尾の家庭教師)

小野は、甲野さんと宗近君に比叡山行きに誘われたけれども、ゴチャゴチャ行ってこなかった。藤尾と一緒にいる。

そんな感じの三章。

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