フリオ・コルタサル「南部高速道路」

岩波文庫、フリオ・コルタサルの短編集、『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』の中に入っている「南部高速道路」。

「悪魔の涎」は有名だと思う。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「Blow-up」(邦題「欲望」)の下敷きとして使われた、というエピソードがあるからだ。この『欲望』は、私すら観たことのある、名作である。

私はでも、コルタサルの「南部高速道路」を推したい。

まず、パリへ向かう高速道路が渋滞し、手持無沙汰にしている各車のドライバーたちの様子が、それぞれ映し出される。この間、改行はない。

技師は右側の2HPに乗っている二人連れの尼僧や左側のドーフィヌの若い娘を相手におしゃべりしたり、バックミラーを通してカラヴェルを運転している青白い顔の男を観察したり、楽しそうに子供とふざけたり、チーズを食べたりしている(若い娘の乗ったドーフィヌのうしろの)203の夫婦のいかにも幸せそうな様子を皮肉っぽい気持ちで眺めたり、あるいはプジョー404の前のシムカに乗っている二人の若者があたり構わず騒ぎ立てている様子を見て苦い顔をしたり、渋滞が続くと車からあまり離れないよう用心して(いつ先行車が発進するかわからなかったし、車が動き出したのにぐずぐずしていると、後続車がクラクションをブーブー鳴らしたり、罵声を浴びせかけてくるのであまり遠くへはいけなかった)、まわりの様子を調べたりした。

渋滞で、全く車が動かなくなり、どうもそれがすぐに解消されないと分かった途端、ドライバーたちは車から少しずつ、外へ探索にいくのだった。『ラ・ラ・ランド』の冒頭をシーンを思い起こさせる。

時期は八月。外に出て、ドライバーたちは、この渋滞について話し合うくらいのヒマはある。ただ、先で何が起こっているか、ということについては、誰も知ることができない。閉じ込められているからだ。

時々見知らぬ男が対向車線や右手の外側の列から車の間を擦りぬけるようにしてやって来ては、むせかえるような道路に何キロにもわたって並んでいる車から車へと語り伝えられているあやしげなニュースを伝えていった。

車の近隣にいる人たちは、おのおの、渋滞の原因について議論をしはじめた。根拠は薄弱である。その原因にしたがって、動き始める時間がかわる。時間つぶしのために、原因は何かということを延々と議論し続けるのである。

夜が来た。

自然災害があったとか、大きな事故があったとか、色々な話がとびかう。若者たちはさわいでいる。お互いが、自分の持っているサンドイッチを差し出したり、飲み物を交換したり、一夜を明かす共同体としての連帯感が生まれ始める。

何かがないと誰かが言うと、どこかに何かを探しに行く人が現れる。トイレの場所を誰かが見つけると、順番にそこで用を足すようになる。しかし、動かない。

技師の周りにいる車のドライバーたちは話し合って、リーダーを決めて、食料と水を分配しようと決める。騒いでいた若者たちも、それに賛同する。しかし、若者の一人は、水を勝手に飲もうとして、共同体から叱られる。

二日目の夜。子どもたちはすっかり仲良しになって、それぞれ遊んでいる。少しずつ進むが、ついに三日目の昼を迎える。日差しは強い。車に掛ける被いを、探しに行く。

近隣の農家に誰か買い出しに行こう、という話になる。その間、運転できるものが、車を前進させればよい。2,3人が先遣隊として行くも、農家は警戒して食料を渡してくれない。

人とずっと交流しない男が服毒自殺を図った、と、大騒ぎになる。遺書もある。死体をそのままにしたら、なんといわれるかわからない。仕方ないので、みなで協議して、トランクにそれをしまい、あるところで、役人にそれを引き渡そう、決めた。

何日たったかわからない。病に侵されていた老婦人も亡くなった。

このようにして、高速道路の渋滞にまきこまれたまま、人々はずいぶんと時間を消費する。

時はきた。

若者は404にそのことを伝え、404がドーフィヌに何か言うと彼女はあわてて自分の車にもどった。タウナスと兵隊、それに百姓が急いで駆け戻ってきた。若者はシムカの屋根の上から前方を指さして何度も同じことをくり返し叫んでいたが、その様子はまるで目の前で起こっていることが夢ではないんだと自分に言いきかせているようだった。その時、鈍い地鳴りのような音が聞えてきた。

車は動き出す。高速道路の中で形成された共同体の感覚が、急速に、解体していく。隣を走っているのは、あのとき、様々に協力したタウナスとは色違いだ。

渋滞が始まった頃に読んだ小説はたしかタウナスが持っているはずだし、尼僧の2HPにはほとんど空になったラヴェンダーの香水瓶があるはずだ。シートの横には、マスコットにすればいいわと言ってドーフィヌがくれた熊のぬいぐるみが置いてあったので、彼は時々それを右手で撫でた。ばかばかしい話だが、九時半になればまた食料の配給がはじまり、病人たちを見舞ってからタウナスやアリアーヌの百姓と現状について話し合う、そのあと夜がふけると、星空、あるいは曇天の下をドーフィヌがこっそり自分の車にやってくる、そんな毎日の生活が繰り返されるような気がしてならなかった。そうだ、きっとそうなるはずだ。

気が付くと、見も知らぬ車の中を、前へ前へと走っている。あの時間はなんだったのだ。

車はいま時速80キロで、少しずつ明るさを増していく光に向かってひた走っている。なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことに全く無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないか、その理由は誰にも分からなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた。

時間感覚がねじれて、淀み、そして急に流れ出す、時間感覚をめぐる小説だと思うし、象徴的には、社会の形成と解体、もっと具体的に言うと、例えば、思春期の夢のような学校生活の謂いとしても感じ取れる。

人と交わることの少ない私とて、あの時代に濃密に関わった友人たちがいて、彼等とは深夜にまで、どうでもいい、それでいて私達には深刻だったテーマについて、アレコレと話し合った。

その時に出来た関係はどうなったか。思い出はあるものの、もうここにはないし、その記憶も、そろそろほつれはじめ、時間の流れの中でバラバラにほどけつつある。

このような寂しさのような、それでいて、甘美な爽やかさのようなものを、この「南部高速道路」は幻想的に味あわせてくれる。

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