フリオ・コルタサル「南部高速道路」
岩波文庫、フリオ・コルタサルの短編集、『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』の中に入っている「南部高速道路」。
「悪魔の涎」は有名だと思う。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「Blow-up」(邦題「欲望」)の下敷きとして使われた、というエピソードがあるからだ。この『欲望』は、私すら観たことのある、名作である。
私はでも、コルタサルの「南部高速道路」を推したい。
*
まず、パリへ向かう高速道路が渋滞し、手持無沙汰にしている各車のドライバーたちの様子が、それぞれ映し出される。この間、改行はない。
渋滞で、全く車が動かなくなり、どうもそれがすぐに解消されないと分かった途端、ドライバーたちは車から少しずつ、外へ探索にいくのだった。『ラ・ラ・ランド』の冒頭をシーンを思い起こさせる。
時期は八月。外に出て、ドライバーたちは、この渋滞について話し合うくらいのヒマはある。ただ、先で何が起こっているか、ということについては、誰も知ることができない。閉じ込められているからだ。
車の近隣にいる人たちは、おのおの、渋滞の原因について議論をしはじめた。根拠は薄弱である。その原因にしたがって、動き始める時間がかわる。時間つぶしのために、原因は何かということを延々と議論し続けるのである。
夜が来た。
自然災害があったとか、大きな事故があったとか、色々な話がとびかう。若者たちはさわいでいる。お互いが、自分の持っているサンドイッチを差し出したり、飲み物を交換したり、一夜を明かす共同体としての連帯感が生まれ始める。
何かがないと誰かが言うと、どこかに何かを探しに行く人が現れる。トイレの場所を誰かが見つけると、順番にそこで用を足すようになる。しかし、動かない。
技師の周りにいる車のドライバーたちは話し合って、リーダーを決めて、食料と水を分配しようと決める。騒いでいた若者たちも、それに賛同する。しかし、若者の一人は、水を勝手に飲もうとして、共同体から叱られる。
二日目の夜。子どもたちはすっかり仲良しになって、それぞれ遊んでいる。少しずつ進むが、ついに三日目の昼を迎える。日差しは強い。車に掛ける被いを、探しに行く。
近隣の農家に誰か買い出しに行こう、という話になる。その間、運転できるものが、車を前進させればよい。2,3人が先遣隊として行くも、農家は警戒して食料を渡してくれない。
人とずっと交流しない男が服毒自殺を図った、と、大騒ぎになる。遺書もある。死体をそのままにしたら、なんといわれるかわからない。仕方ないので、みなで協議して、トランクにそれをしまい、あるところで、役人にそれを引き渡そう、決めた。
何日たったかわからない。病に侵されていた老婦人も亡くなった。
このようにして、高速道路の渋滞にまきこまれたまま、人々はずいぶんと時間を消費する。
時はきた。
車は動き出す。高速道路の中で形成された共同体の感覚が、急速に、解体していく。隣を走っているのは、あのとき、様々に協力したタウナスとは色違いだ。
気が付くと、見も知らぬ車の中を、前へ前へと走っている。あの時間はなんだったのだ。
*
時間感覚がねじれて、淀み、そして急に流れ出す、時間感覚をめぐる小説だと思うし、象徴的には、社会の形成と解体、もっと具体的に言うと、例えば、思春期の夢のような学校生活の謂いとしても感じ取れる。
人と交わることの少ない私とて、あの時代に濃密に関わった友人たちがいて、彼等とは深夜にまで、どうでもいい、それでいて私達には深刻だったテーマについて、アレコレと話し合った。
その時に出来た関係はどうなったか。思い出はあるものの、もうここにはないし、その記憶も、そろそろほつれはじめ、時間の流れの中でバラバラにほどけつつある。
このような寂しさのような、それでいて、甘美な爽やかさのようなものを、この「南部高速道路」は幻想的に味あわせてくれる。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?