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「恋を斬ると紫色の血が出るというのですか」夏目漱石『虞美人草』第一章

夏目漱石の『虞美人草』を読もうと思った。

実は、読んだふりをして、読んでいなかった。

というのも、学生時代、夏目漱石の作品短評の中で、失敗作と断じられており、その根拠は定かではないものの、若さゆえの視野の狭さがあった私は、評価をそのまま疑うことなく信じ込んでしまったからだった。

先日、本棚をゴソゴソしていたら、とても綺麗な文庫本が見つかった。これは妻が買ったものだろう。私の『虞美人草』は古本屋50円均一のものだから、こ汚く、文字フォントも小さくて読む気になれなかった。妻のは新刊で買ったものだろう。すべすべした表紙が、心地よい。これを読もう、そう思った。

読んだことないのに知ってる内容。これはタチが悪い。悪女の甲野藤尾。翻弄される小野。小野のモデルは厨川白村。白村は恋愛観研究の本で有名になった。でも文学研究者。そんなことばかり、頭に入ってる。藤尾は最後自殺する。なんてこった。

文学なるものはネタバレなどものともしないというのが、現代の読者の「ますらおぶりだと聞いて育ったが、それもまた如何。

第一章

藤尾の異母兄である「甲野さん」と、友人の四角い男の「宗近」が、比叡山頂を目指して、話しながら歩いている。この会話において、おおらかな「宗近」と、斜に構えた「甲野さん」が対比され、小説世界への導入が果たされる。

典型口上の組み合わせなのか、科学的な視線によるカメラワークなのか、若干判然としない描写があって、それは案外良かった。

春はものの句になり易き京の町を、七条から一条まで横に貫いて、烟る柳の間から、温き水打つ白き布を、高野川の磧に数え尽くして、長々と北にうねる路を、大方は二里余りも来たら、山は自ずから左右に逼って、脚下に奔る潺湲の響も、折れる程に曲がる程に、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更けたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峯の裾を縫うて、暗き陰に走る一条の路に、爪上がりなる向うから大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の尿の尽きざる程に、長く且つ静かである。

京都を俯瞰するようなグーグルアース的な視点から、徐々にストリートビュー的な位置に移行し、音を混ぜながら、無人称の一般的な感興を惹起させ、大原女や牛といった具体的なイメージへと降りていく。「牛の尿の尽きざる程に」も、ウィットの効いた表現になっている。

悪くないね。

「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、質さえ慥かなら構わない主義だ」
「そんな慥かなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢の如しか。やれやれ」
「只死と云う事だけが真だよ」
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の浮気は中々已まないものだ」
「已まなくったって好いから、突き当るのは真っ平御免だ」
「御免たって今に来る。来た時にああそうかと思い当たるんだね」
「誰が」
「小刀細工の好な人間がさ」
山を下りて近江の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに眺めているのが甲野さんの世界である。

どっちの発話が「甲野さん」で、どっちが「宗近くん」かわかるよね?

表題は藤尾の名ゼリフ。

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