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川端康成「十六歳の日記」

川端康成の伊豆関係のエッセイを読もうと思う。

その前提として、川端康成の年譜を読んでいくと、色々と身につまされてしまう。

苦労人としての自負と、自身の言う「孤児根性」が、ないまぜになって行動の至るところに現れていることに読者も気づく。そして、作家自身がそのことを深く自覚しているところに、苦しさがあったんじゃないかと思われる。

虚弱な家系の先端に虚弱な自分がいて、自分自身が今まさに家系を枯らしてしまうのではないかという恐れのようなものが、家系の元にある北条家の土地を求めさせ、鎌倉や伊豆といった土地への愛着として川端の中に根付いていたのではないか。

ただ、こうした作家すら自覚してないような領域が、川端には見当たらない。案外と自作について語り、自分について語ることの多かった川端は、他の人が触れられそうな領域には先んじて自分の解釈を提示している。

大変に共感できるのはそれである。

わかってほしいと同時に簡単にわからせたくないという矛盾が、川端に近づく際の厳しさとして表れている。

どうしてこうなっちゃのかな、と思うことも多かっただろう。しかし、その条件でなお自分の限界を目指していった川端康成は、自己実現という言葉とは対極にあるような人だ。ノーベル文学賞はもちろん取れたらよいと思っただろうが、そうした賞よりも本当に欲しかったものが得られたのだろうかと不憫になってしまう。

世界的な賞賛の言葉よりも、単純に人の温もりの実感が欲しかったんだろうと思う。

川端はまず今でいうヤングケアラーだった。

幼い時に父母が病死し、祖父母の元で育った。優しい祖母が亡くなった後は、祖父の面倒を見ながら勉学や読書に励む。『伊豆の踊子』の最後に出て来る、嬰児を背負った婆さんの姿は、川端と姉を引き取った時の祖父母のイメージが重ね合わされているだろう。

寝たきりで徐々に痴呆も現れて来た祖父と同居しながら学校に行くというのは大変だっただろう。自分なら腐る。しかし、川端は腐らなかった。「十六歳の日記」には、そんな大正のヤングケアラーの姿が見てとれる。

もちろん今と違って地縁的なものがある。隣近所の人が川端を気にかけてくれている。川端もそのことに対する感謝を欠かしてはいない。

「もういい加減で御飯食べさしてんか。」
「今しがた食べたところやないかいな。」
「そうか。知らん。忘れた。」
私は悲しく呆れた。言葉は日々に低く、元気なく、聞き取りにくくなる。同じことを十数度繰り返して言っていられる。
『伊豆の踊子 骨の音』p.63
「この人間界で、僅か中学をまだ卒業せんくらいではな。ああ。」
祖父は今日は馬鹿に私を見下げる。
やがて寝返りして、あちらを向かれた。私は明日試験の英語の教科書を開いた。私の世界は一寸四方の中に押し込められたように、きりきりしまって固くなっていた。今晩の祖父の声は、もうこの世の声でなかった。
同上p.69
今日は大変苦しそうだ。いろいろに慰めてみても、
「ううん、ううん。」と、返辞か喘ぎか分からないものを繰り返していられるばかりだ。せつなそうなうめき声の断続は私の頭の底まで響いて、私の命を一寸刻みに捨てていくようにつらい。
「おうい、おうい。おみよ、おみよ、おみよ、おみよ、おみよ。おうい。ああん、ああん。」
「なんや。」
「しし出ます。はよはよ《早く早く》やって。」
「よろしい受けたで」
五分ほど溲瓶をあてがったままでいると、また、
「ししはよやって」
感覚が麻痺している。私はふびんに思い悲しかった。
今日は熱がある。一種嫌な臭いが漂っていた。──私は机に向かって本を読んでいる。長く高い呻き声。五月雨の降る夜。
同上pp.74-75
七時過ぎに、
「遊びに行って来るで。」と、私は家を飛び出してしまった。十時頃、門口まで帰ると、
「お常さん、お常さん。」と呼ぶ祖父のたまらなそうな声が聞こえるので、急いで、
「なんや。」
「お常さんは?」
「もういなはった⦅帰った⦆。十時やもの。」
「お常さん御膳食べさしてくりゃはったかいな。」
「食べたくらいな。」
「おなか空いた。食べさしてんか。」
「もう飯はなし。」
「そうか。困ったなあ。」
こんな整頓した会話ではなかった。いつもおきまりのくだらないことを、何度も何度も繰り返していられる。こちらの言うことは耳に入ったというだけで、直ぐに抜けて、また同じことを問い返される。頭がどうかなっているのか。
同上p.76

つらい。川端先生、本当につらい。

学校へ出た。学校は私の楽園である。学校は私の楽園──この言葉はこの頃の私の家庭の状態を最も適切に現わしてはいまいか。
同上p.54

構造的に工夫があって、そのことにも触れたいけど、身につまされてしまったので、この辺で。

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