『カラマーゾフの兄弟』(読了)
小林秀雄が「およそ続編というものが全く考えられぬほど完璧な作品」という評言をしたとか聞いて、また秀雄のカッコつけかと、あの中原中也の追悼じゃないけど、「例えばあの赤茶けた雲に乗っていけ」、みたいなブルーハーツ味のある言葉を吐き鳴らす秀雄の当代一流の言いっぱなし文学かと思っていたら、まあ、それは事実だったことに驚いた。
あなたの文学ではなかったのですね、秀雄さん。
僕はゾシマ長老の死以降、感想文を書くことを怠ってしまいましたが、この『カラマーゾフの兄弟』を読み始めた時の嘲弄的な感想文を再読して、ああ俺は何もわかっていない小人だったなと思わされたくらい、なんとも感動的な作品であったことは、電車の中でエピローグを読んで泣いてる初老のデブの姿を見た人ならきっとわかってくれるはず。
だからといって、とくに後半、父・フョードルが何者かに殺害される、長兄・ドミートリィが嫌疑をかけられてしょっ引かれる、次兄・イワンが真実らしきものをスメルジャコフから聞く、それでイワンは突き詰めていくと俺は殺したんじゃないかと自分を責める、三男・アリョーシャは黙ってたらバラバラになる様々なパーツをできる限り形あるものにしようと奔走する、裁判が始まる、証人の証言、検事の雄弁、弁護士の分析、様々な弁論が重ねられた上で、結審。その後、イワンが残した脱走計画をカテリーナから受け取ったアリョーシャは、ドミートリィにそれを伝えて、アメリカへ逃げるように勧め、死んだイリューシェチカの埋葬の記憶を子どもたちに印象付ける。
どれもこれも印象深いパーツで、ふざけたことを言う俺の軽口なんか、出る幕はなかったよね。それでもなお、最初に始めたのだから、最後は何かやらなきゃいけないと思って戯言を猛り狂わせようとしたけど、まあ、勃たずに折れちゃったね。そんなもんです。やっぱり、そこには秀雄みたいな不遜な力がないと、一冊の本にはできないね。いやはや、脱帽。
さて、だからそんな前口上はいいから感想なんだけど、やっぱりこれは誰もが言うように、読んでみてくれよ、ってことしか言えないかも。大審問官がどうのとか読む前は知識としてあったけど、弁護士の弁論なんかも良かったし、エピローグでイリューシェチカの葬式で泣くスネギリョフ(例のドミートリィにボコられた人ね)とか、直前にフョードルがさ、弁護人の話の中で、「父殺しとは言いますが、彼を父と呼べるのでしょうか」みたいに言うところと響き合って、なんとも言えない気持ちになったりとか。名シーン多いですよね。
エピローグの最後で、スネギリョフが泣いているときに、アリョ―シャが、ああなったらしばらくだめだから、またあとで来よう、みたいに言ったとき、いや理性的にはわかるけど、そんなに冷静になんなよ、と突っ込んだら、そういえばアリョーシャだって、毒親の犠牲者なんだよな、と思い当たった次第。あいつ人格者だけど、やっぱりほったらかされていて、ほったらかされた記憶が、ドミートリィやイワンほどにはないから許せるのかもしれないけど、やっぱり子どもたちに演説したように、僕たちは悪い人になるかもしれないけど、そんなときだって子どものときに善良だった自分がいたという思い出さえあれば踏みとどまれることもある、と述べている当人に、そんな記憶があるのかどうか、定かではなかった。
あと、兄弟が、なんだかんだと、最終的には憎み合い、煙たがりながら、それでもお互いを思い合っていることに、それはそれでよかったなあ、と思わせた。エピローグでアリョーシャがドミートリィに会いに行ったとき、イワンの容体を聞いて、ドミートリィが「俺より、あいつの方が生きなきゃいけない男だ」みたいなことを言ってて、イワンはイワンでドミートリィの脱走計画を立ててあげて、そういうのをやりとりするのはアリョーシャなんだよね、とか思うと泣けてきますな。
これって読んだ記憶で書いているから、まだ読んでいなければ、なんのこっちゃと思う文章だけど、いや、ぜひ、読んでいただければと思う、それだけですね。チンケな感想は、そんなに簡単には出てこない。それくらい、なんというか、強度のある作品だったな。
思想性とか、難しいことは二度目読んだときに考えればいいから、とりあえずはストーリーだけでも追いながらサクっと一読、というのがいいのかもと思い、みんなそう思うから、春樹の挑発もあれ、孝の褒めすぎもあれ、なんやかやとみんなして、読め読め、と勧めるんだろう。長い時間の中で、このセリフを聞くと、わかるよね~、みたいな雰囲気になるので。
ハイ、11月12日から読み始めた『カラマーゾフの兄弟』も、いくつかの中断を経て、読み終わりましたよ。