「甲野さんは眇然として天地の間に懸っている。世界滅却の日を只一人で生き残った心持である」夏目漱石『虞美人草』第八章
この章では、前半部、甲野さんの義母と藤尾のいやな感じの会話が展開される。
藤尾は、義父の残した宝石入りの時計が欲しいと思っている。しかし、義父はこれを宗近君に上げるといっている。藤尾はこの時計が欲しくて一緒についてくるかもしれないとも義父はいう。藤尾は、小野と結婚して、この時計も得たいと思っている。
義母は、夫の財産を藤尾に継がせて、甲野さんを追い出したいと思っている。なんなら自分から出て行ってほしいとでも思っている。少なくとも、甲野さんにあげたくないとも思っている。
いやな感じ。
後半部は、宗近君の父と宗近君、甲野さんとの歓談。
宗近君は外交官試験を受けているが落ち、再受験の最中であることが、ユーモアある会話の中であかされる。
宗近君の父は、そんな息子の道楽を、見守っている。そして、甲野さんに早く結婚しないのかといい、甲野義母が安心するだろうと述べるが、甲野さんは義母のたくらみを見破っており、そのことは宗近父子には言えない、と思う。
いやな章だね。ここは。
でも、これくらい、善悪をはっきりさせないと、感情移入の先がない。
そんな勧善懲悪の感じが、失敗作の根拠の一つとなっている。
ただ、これは、夏目漱石一流のキャラクター小説だった、としたらどうか?
藤尾はキャラが立っている。
小野もキャラは立っている。
文学者と哲学者のキャラの差異がもっとあればいいかもしれない。でも明治の終わりくらいには、結構差があったのかもしれない。
いまだと、文系の役立たずくらいの共通点で括られて、そんな差もないのかもしれない。
俺も役立たずと言われて久しい。
昔の上司に「あなたの学問は趣味なんだから」とずっと言われてきていた。
まあ、そうかもしれない。事実そうなんだろう。
昔の上司には、「せめて語学くらいできていただきたいものですな」とか言われた。
知らね。
そういう心無い一言一言が、俺を開き直りの境地に追い詰めた。
文学なんか誰でもできるし、歴史なんかもっと誰でもできる、と思われている。
うるせー、と思った。
読書感想なんか、どうでもよくなった。