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ルナール「フィリップ一家の家風」『ぶどう畑のぶどう作り』

先日、創作の反省をするつもりで谷崎潤一郎と芥川龍之介の「小説の筋」論争を追ってみようと思いました。それで谷崎に対する芥川の応答部分が、『侏儒の言葉・文芸的な、あまりに文芸的な』(岩波文庫)の中に入っていたので、ペラペラめくっていたら、絵のような小説は西洋にあるかないかという芥川の論旨の中で、絵のような小説の代表としてジュール・ルナールの『ぶどう畑のぶどう作り』という小説が例示されていました。

正確にいうと『ぶどう畑のぶどう作り』の中の一編「フィリップ一家の家風」にあると芥川は言っていました。ルナールは『にんじん』というタイトルの本を持っているのですが、正直「にんじん」に何の興味もなくて、それでいてちゃんと読むこともなかった作家なのですが、『ぶどう畑のぶどう作り』なら、ワインも好きだし、何か話のネタがあるんじゃないかと思って、買い求めた次第であります。

しかしながら、ヴィニィロンネタがあるのかと思いきや、「ぶどう畑」と題された章はたったの三章!「これか、イメージの狩人の異名は!」と震撼しました。

芥川が提示している「フィリップ一家の家風」は日本語の書籍にして50ページくらいあるので、筋が作れそうですが、そんな分量でも絵のように書いているから、芥川はそれを紹介したのだろうと勝手に思いました。

芥川が読んでいた同時代のフランス人作家として登場するのはアナトール・フランス、ギ・ド・モーパッサン、モーリス・バレス、ジュール・ルナール、どれも現代においてはいささか分析にかけるにはやっぱり言葉が少なかったり、思想的に微妙だったりという感じで、なんで芥川はフランスにこだわったのか、興味深く思いました。

さて、そんな「フィリップ一家の家風」ですが、『ぶどう畑のぶどう作り』という書籍自体がフランスの農村に生きる人々のスケッチという側面が強く、一つ一つの章は短いものが多いです。その中で、この「フィリップ一家」は冒頭に置かれているだけあって長い方ですが、いくつかの節に分かれていて、それぞれは結末に向かって組織されているわけではないです。

だからこそ芥川は、この作品を絵画的なものとして、それこそバルビゾン派の絵画のように解釈したのかなと思いました。

フィリップ一家は、夫のフィリップと妻の「お神さん」、出征している息子のピエール君の3人家族。時代ものの、とても古く、そしてボロい家に住んでます。年代もののベッドがあり、昔は天蓋もついていたけれど、先祖が売っちゃったりして、今は何もない。

「お神さん」は毎日の仕事に疲れて夢を見ないし、普段の仕事は畑仕事をしたり、豚をしめて祭礼の食事を用意したり、ピエール君の凱旋の準備をしたりと、日常的な風景が流れていて行きます。

お話だと、この日常が何かの事件や闖入者によって乱されて、それが再び調和を取り戻したり、悲劇に終わったりとあるわけですが、「フィリップ一家」については、特にそういうこともなく、善良で素朴なフィリップの姿が映し出されていくだけです。

フィリップは気位が高いというようなところはいっこうない。なんでもくれればもらうというふうである。紫のリボンのついた子どもの麦わら帽子、そのリボンに「軍艦海神号」と金文字で書いてあるのを彼に与えたものがある。
フィリップの頭は大きくない。その帽子にうまくはまるのである。
「これで夏が越せます」
「リボンをはずすといい」
「なに、邪魔になりません」
フィリップが、若いともいえない年で、この子どもくさい帽子を頂いて、畑で仕事をしているのを見ることができる。リボンの紫はおいおいと褪せていくが、海神ネプチュヌの金色燦爛たる名は、日光にもめげないでいる。

ここいいシーンだと思いました。うちの親父も私は中学校の時に来ていた学校のジャージを寝巻きとしてずっと着ています。私も、以前の家の一階にあったワインバーの人からもらったアサヒモルツの宣伝Tシャツを、寝巻きに着ています。「グッとくる旨み!」の文字がオレンジの地に映えます。脇腹も破れ、生地が透けるほど薄くなっていますが、着続けています。

物語の終わりがどうなっているかというと、一行ずつ、改行して、さらに一行開けて、彼の人となりを示すような言動が示されて、フェードアウト。なるほど、こういう終わりもあるのか、と面白かった。

じゃあ、「ぶどう畑」はどうなっているのかというと、たった三行。

どの株も、添木を杖に、武器携帯者。
何をぐずぐずしているんだ。ぶどうの実は今年はまだ生らない。ぶどうの葉は、もう裸体像にしか使われない。

「武器携帯者」の原語がちょっと気になりますね。添木があるってことは、垣根仕立ての中でもペルゴラとかそういうやつで、武器を持ってるように見えるってことですかね。それともギョードゥーブルとかそういうやつで、腕を振り上げてるように見えるってことなんですかね。

さっきのフィリップも葡萄畑で働いて、休憩に一杯、葡萄酒をやったりしているので、葡萄畑の農夫(ヴィニュロン)なんですかね。

筋のない小説が面白いかっていうと、3周くらい回って面白くなるって感じで、芥川も切れ者中の切れ者であるが故に、結末に向かって組織されるような小説はスタートの段階で、こういうところに向かっていくのかなとわかっちゃう人だから、むしろルナールのような、どこで終わるかどうかわからないような小説も良い!って思ったんじゃないかしら。

芥川はほんと天才だなあと思う。個人的には、教科書的には暗い重いとされる後期作品が好きです。『歯車』とか『蜃気楼』とか。でも、芥川の恋愛は、『日出処の天子』の厩戸と膳臣娘のようになってはいなかったかしら。それはそれでなんとも言えない儚さと傲慢さがないまぜになって、辛いです。筋のない論争はどっちとも言えないけど、恋愛に関してはやっぱ谷崎をとるかなあ。

電車の中で書いてるんで、ブレブレなんですけど。

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