このもどかしさをどう伝えたらいいのか ~映画『山の音』と小説『山の音』の間~
通し番号にするよりも、映画『山の音』と小説『山の音』の違いについて書こうとしたときに感じた思いをタイトルにした方が、書きたいことに近づくのではないかと考えました。
小説『山の音』とは川端康成の名作と言われる『山の音』であり、映画『山の音』は成瀬巳喜男監督による名画である『山の音』のことです。
ストーリーの単なる映像化であれば、キャスティングや演出に素直に向かえるのですが、『山の音』に関しては「脚色」という操作が入っていることで、感想を言いにくくなっています。これがなんとももどかしい。
「脚色」は水木洋子氏によるもので、原作の後半の順序を入れ替え、小説が目指した物語とは異なる物語を展開しています。それによって、作品の強度が減じたかというとそうでもなく、これはこれで一つの世界が作られています。この小説世界と映画世界の関係について、言及したいのですが、しづらいことにここ一週間くらい悩んでいます。
菊子の存在感の違い
映画『山の音』は、原節子という女優のイメージに合わせて「菊子」が仕立て直されているように思います。小説では、自己主張や押し出しが若干弱く、主人公なのかどうなのかわからない存在感の「菊子」ですが、映画では圧倒的な存在感を持っています。
この「菊子」の存在感の差異が、映画と小説の違いだといえそうです。
では、どう違うと感じるのか。ここが難しいところで、言いにくい部分です。
小説の菊子は、ある意味で人に頼る部分が多く、今なら職場の今まであまり女性に好かれたことがないという自覚を持つ男性に妙に好かれそうなタイプで、そんな男性の狂気を引き出してしまう印象です。
映画の菊子は、肩幅も広く大きい感じなので、強い生命力があるタイプ。モラ夫である修一の暴挙に傷ついて、徐々に弱々しくなっていくのですが、原節子はあまり弱々しい女に合っていない印象もあります。
だからなのか、そんなモラ夫である修一やその家族たちから離れて自由を獲得する女性としての物語が、映画の菊子の物語だったと言えます。
信吾と保子の物語の抹消
小説は、三つの夫婦の物語が絡み合った物語が展開されます。しかし、映画は、その中の菊子と修一という夫婦の物語に焦点が当てられている。小説で本来語り手として重要な立場にいる信吾は、菊子の自由獲得の「援助者」としての役割に徹されています。
修一はシタ夫、モラ夫として。保子と房子は子どもはまだかと口うるさい姑と小姑として。相原に至っては、背景をなすだけです。
本来、小説にある信吾と保子の物語には、亡くなった保子の美しい姉への思慕、や、姉の後妻に収まれなかった保子の失望など、お互い夫婦で隠しあっている心の中の秘密があって、その秘密のせいで会話が歪んだりするのですが、映画だとその辺はあけすけに語られてしまいます。
映画だとその信吾の保子の姉への思慕と代理物としての保子との結婚という、信吾が保子に秘密にしているはずの事象が、保子自身によって説明され、夫婦間の中で終わったこととして処理されているのです。これには驚きました。
本当は自分の姉のことが好きだったのに、その姉が亡くなったので、その面影を宿した子どもが生まれるかもしれないと思って妹と結婚した、という結婚の真の動機を知ってなお、夫を愛せるものでしょうか。そう考えると、映画の保子はものすごい人格者というか忍耐の人に見えてきます。
したがって、映画では信吾と保子の物語を成立させているお互いの心の中の秘密が共有物になってしまっているので、信吾は菊子の庇護者、保子は庇護者でありつつも出産を押し付けてくる悪意なき加害者としての側面だけが存在意義になっています。
房子の物語の抹消
房子も、相原との結婚生活がうまくいかなかったのを、信吾=父に愛されなかったことに帰責し、信吾に愛されている菊子にライバル心をむき出しにする競争者としての側面だけが存在意義になっています。小説ではこの房子こそ、愛情を受けられなかった心の傷を克服して、子どもと一緒に強く生きていこうとする側面があったりしますが、映画ではそこも端折られている。
私は、この父にも母にも夫である相原にも愛されなかったという自覚を持つ房子のことがとても好きです。外見については、信吾によって「醜く」生まれたと説明されていて、肉親のくせに本当にひどいなあと思わざるを得ないんですが、その保子の姉への思慕が、様々な呪いとなって尾形家に降りかかっている気がしてなりません。そんな呪いにも負けずに生きる決意をする房子は、本当に立派だと思います。若干、それでも愛情はいらないから金をくれという甘えの側面があるところも愛嬌ですね(小説)。
修一の物語の抹消
修一も、映画ではイケメンでモテ男で、戦争未亡人である絹子と不倫して子どもまでもうけるみたいな加害者としてのみ登場します。小説では、この心の虚無が戦争によるものと暗示され、絹子との不倫も戦争で傷ついたもの同士という背景があったりするので、一概に加害者とも言えないのです。
菊子は一方で、修一が不倫をしていることで女としての側面が活性化されたりするし、修一は修一でその辺を理解して、絹子と揉めた時には菊子に甘えたり、絹子と別れて釣りに熱中したり、菊子の人生に対して家族を背負わすことは回避しようとしたり、夫婦関係の複雑さがあったりするのです。
構成の差異
小説版の流れ
1山の音
2蟬の羽
3雲の炎
4栗の実
5島の夢
6冬の桜
7朝の水
8夜の声
9春の鐘
10鳥の家
11都の苑 中絶して家に帰っていた菊子が帰ってくる際に、新宿御苑で信吾と会う
12傷の後 菊子が持って来た電気カミソリで尾形家がなごむ
13雨の中 相原の心中事件が明らかになって房子が狂乱する
14蚊の群 修一の不倫相手の絹子に信吾が談判しに行く
15蛇の卵 菊子が再度妊娠したのではないかと信吾は房子の話で思う
16秋の魚 家族みんなが集まった食事のときに信州の紅葉をみにいこうと信吾が提案する
映画版の流れ
1山の音
2蟬の羽
3雲の炎
4栗の実
5島の夢
6冬の桜
7朝の水
8夜の声
9春の鐘
10鳥の家
14蚊の群 修一の不倫相手の絹子に信吾が談判しに行く
13雨の中 相原の話をしたあと問題がペンディングする → 相原と修一が相談して何か合意に達したシーンが描かれる → 相原は仕事が忙しいだけとなる
11都の苑 中絶して家に帰っていた菊子が帰ってくる際に、新宿御苑で信吾と会う → 修一と別れるように信吾が言う → 菊子泣いて肯定し、田舎に帰ることを決める
削除されたもの12傷の後 菊子が持って来た電気カミソリで尾形家がなごむ13雨の中 相原の心中事件が明らかになって房子が狂乱する15蛇の卵 菊子が再度妊娠したのではないかと信吾は房子の話で思う16秋の魚 家族みんなが集まった食事のときに信州の紅葉をみにいこうと信吾が提案する
こういう順序に「脚色」されています。
相原と房子はただ揉めてるだけの夫婦ということで処理され、信吾はほとんど葛藤を抱かず(何かを忘却したり、奇妙な音やイメージを感じたり、不吉な夢を観たりというシーンが省略されている)、修一は身勝手な夫になり、菊子は最後、御苑のヴィスタがどうこうという小説の11章に出てくる会話で、ヴィスタの意味は「見通し線」ということで、菊子の自由と今後の見通しが広がったという暗示で映画は終了していくことになるのです。
本当は
12章では、アメリカ的な秩序の象徴としての電気カミソリが、尾形家の瓦解をくいとめ(日本のアメリカの占領政策が暗示されているようにみえる)、
13章での相原の心中によって、父の愛の欠如に対して房子が文句を言い、それによって信吾が自身の責任を強く感じ、
15章ではなんとか絹子との不倫関係を清算した信吾が修一に責任を強く迫ると、修一は菊子は自由だという不思議な論理で対抗したり(戦前と戦後の感覚の差が暗示)、
16章ではそうした様々なズレを調整するために、信吾の問題の根源であるところの保子の姉の肩身の紅葉の盆栽を信州の田舎にみんなで見に行こうと提案し、すべてを収めようと試みる信吾に対して、色々な登場人物の決意が見られたり、
といった複雑な3つの夫婦間の問題が菊子の人生の問題へと集約されて終了してしまうのです。
映画『古都』の改変よりは穏やかであり、鮮やかであるものの、映画にしようとするとなかなか難しいものだなあ、という思いを強くします。
川端作品の映画化には、多くの問題が転がっているなあとモヤつく次第でございます。
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