内田百閒「冥途」
ここのところ歯が痛い。歯が痛いと、不安になる。いずれ歯医者に行かないといけないのだが、あの、虫歯を削るときの、不安定な痛みの感覚を思い出して、いてもたってもいられなくなる。
どうして歯が痛くなったのか。よくわからないが、3日前くらいに、歯の間に何かが詰まった。それをとったつもりだったが、以前神経を抜いた歯の周辺から、嚙合わせると鈍い痛みが発するのだ。嚙んでないときに痛みはあるようなないような。
いつもの、免疫力が下がっているときに出来る口内炎の痛みだったり、顎関節症によっておこる左あご全体の鈍い痛みだったり、そういったものとは違う、うねりのある痛みの感じは、やはり虫歯だろう。
こういった不安を適切に表す小説を一つあげろといわれたら内田百閒の『冥途・旅順入城式』をおすすめする。かなり短い短編がつらなる本作は、百閒の夢とも不安とも予見ともイメージともつかぬもので埋め尽くされている。明確な怖さが眼前に現れるわけでもなく、さりとて怖さ自体が消失してしまうのでもなく、いやな感じが持続する。
あらすじ
読んだことのある人は、「冥途」にあらすじなんかあるかよ、ときっと言うに違いない。どれを選ぼうかなと考えたとき、まっさきに「冥途」はまとめづらい。どれもまとめづらいが、「冥途」はとりわけまとめづらいととっさに考えた。でも、敢えてあらすじをまとめるなら─
主人公が土手の上を歩いていると一膳めしやがあったのでそこに入った。隣にいる4,5人連れの客が、何かしゃべっている。気になって、内容を理解しようとするも、どうにもわからない。なぜか涙が出てくるが、どうして泣きたくなっているのかもわからない。
ずっと隣の一団は話している。時々笑ったりする。ただ、土手の上を何かが歩いている感じがする。そういうときは、隣の一団は黙る。自分も、身をすくませているしかない。通り過ぎると、また話し出す。障子のところに蜂がいた。自分が先に気が付いたが、隣の一団も気が付いて、何か話している。特に、その身振りが目立つ50過ぎのおとこが、何かをしゃべっている。その話し方に、自分はなつかしさを感じ、涙がにじんだ。
あれは父だ。自分は、父かもしれないその人に向かって、声をかける。けれども聞こえてなかったのだろう。隣の一団は、外に出て行ってしまう。その後を追おうとするものの、すでに一団はいない。探していたら、遠くに見えたような気がしたので、父の姿を探した。けれども、はっきりは見えない。また涙がにじんで、しばらく泣いていたが、その場所をあとにした。
感想
感想もなにも短すぎる。ただ、若いときに読んだ「冥途」は、何が何だかわからなかった。当時は、頭と文学史的位置づけで理解しようとしていたので、「夢十夜的な」といった言葉でこうした短編群を理解しようとしていたに過ぎなかった。
特に、『旅順入城式』の方は、映画をみる百閒という形象が大きく、いくつかの短編はあきらかにサイレント映画のイメージが小説になったのではないかと思ったりして、幻想的な要素を差し引いて読んでいた。映画そのものが幻影だからだ。
ただ、50代が近づくこの時節に、「冥途」を読むと心がたしかにギュッと絞られる。素朴に読むならば、「冥途」は死にゆく父の幻影をなつかしさとともに見る話だからだ。百閒の父子関係の事実関係はわからないが、友達のいなかった私の父は、蘭の栽培や釣り、マネーゲームと一人の世界に浸っていたが、ずっと家にいて野球を観ながら酔っぱらって、審判の判定に文句をつけていたことを思い出している。
コロナでここ数年会えていないが、すいぶんと年をとったのではないかと思う。ただ、やはりかつては若かったし、若かったときのイメージが、私が50に差し掛かろうとするときでさえも、はっきりと残っていて、そのイメージこそがなつかしさの源となっている。
私自身も、そのうち老いて、このような列に加わっていくのだろうが、列があるなら儲けものだろう。百閒も、父が見えた、というよりは、死者の列があることで向こう側の生活が垣間見えたことになつかしさを感じたのではないか。
『Siren』というホラー・ゲームがあって、嫌いな人はただただ怖いだけの話なのだが、村人全員がゾンビとなって、時間の流れが停止し、延々と1970年代の山村の生活が当人たちのイメージの中では繰り返されている。その中に、時空を超えて主人公たちが紛れ込んでしまうという物語だった。
ゾンビになっても、繰り返される村の生活は、生者から見ると恐ろしいだけであったが、いずれ自分も死んでそこへいくと考えたら、さほど怖いものではなく、なつかしいものであった。私も、いまや廃校相次ぐ田舎の山村出身で、近所にはプラモデル屋と駄菓子屋、小さなスーパーしかなかった。そこでの夏休みが、死して延々と繰り返されるなら、それも本望かと思った。