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ポール・オースター『孤独の発明』について

1996年に『孤独の発明』で読書会をしようと言った先輩は、一度どこかの大学を出て、卒業したのちに入り直してきていた人だった。さすがに大人で、読書経験も豊富。今思えば少し現代思想にハマり込んで足が抜けなくなった青年ではあるのだけれど、その感度については一目置かれた人だった。ある先輩と恋仲になった挙句、その後どうなったかはわからない。

当時私たちは『孤独の発明』をフィクションとして読んだ。情報が少なかったから仕方ないのだけれど、今読むと、ダニエルやらシリやら、明らかに実名で登場する。ダニエルは息子、シリは2番目の妻。あの頃はそれらを全てフィクションとして考えていた。件の先輩がどう思っていたかは知らないけれど、少なくともそれらの伝記的事実は情報として与えられなかった。

今回、市場で安かったのと、日本にある倉庫からの出荷で届くのが早いのとで、『トゥルー・ストーリーズ』の中にある「その日暮らし」(Hand to Mouth)の原著を買った。表紙裏に今までのビブリオグラフィーがあって、サブタイトルで仕分けされているのを目にしたら、『孤独の発明』はノンフィクションに入れられてた。それは目からウロコだった。「あ、ノンフィクションなんだ」。

『孤独の発明』は2部構成になっていて、「見えない人間の肖像」と「記憶の書」というタイトルがそれぞれついている。

「見えない人間の肖像」は、亡くなった父のことが書かれている。

多くを語らず、押しても引いても芳しい反応を示さない父親について、「孤独」という言葉で括るオースター。その「孤独」は、物理的に孤独というわけではなく、多くの人の中にいて、内面を完全に消去して閉ざして過ごしているという意味での「孤独」。ただ、それでも、オースターが描写している父親は、我々からすると、まあ「普通の」父親であるような気がしてならない。

「ウチの父親、マジで面倒なんだけど」とかいう時、他の人にとっては、それがとてもうらやましかったりする場合もある。

ポール・オースターの両親はじきに離婚して、ポールは母の方に引き取られて、叔父さんなる人がいろいろ教えてくれたり、ということがあったようなんだけど、離婚した父親とも交流は続けていたようだ。

オースターはアレコレいうけど、オースターがパリにいたとき、父親を呼んでいろいろ案内しようとしたら、自分が風邪ひいて、父親に医者に連れていかれて云々…をみると、「孤独」であろうとやるべきことはやっている印象はあるし、貧しい人々の大家さんとして忙しく立ち振る舞っていたことも確かだ。

内面のようなものがないように振舞う父を、奇妙な孤独をつくり出した人、すなわち「インビジブル マン」だというのは、それはその「内面」なるもののフィクション性を受け入れた作家の見方のような気もする。

本当に、私たちには「内面」なるものがあるのだろうか。

どこまでいっても、言葉は誰もが使える借り物で、自分の言葉なるものなど、どこにもないのではないだろうか。

もちろん、「内面」のようなものを自分で探って、一応自分の核に据えようとする試みはしたわけだけれど、それは私が言葉を用いて建造しているアイデンティティの楼閣のようなもので、常に不安にさらされる不定形なものなのではないだろうか。

オースターの父がそのような「孤独」を発明した背後に、ある祖父母の間にあった事件。祖父を祖母が銃で撃ったのか、祖母が言うように自分で自分を撃ったのか。このような事件が、父をして、孤独を選択せしめた、というようにオースターは書きたそうにしているが、父がそのことについて話そうとしなかったのだから、謎のままだ。

後半の「記憶の書」の書き出しから数ページは、何が書かれているのかわからない断片がつらなる。こうした断片が、一つにまとまっていく場合もあるし、まとまらない場合もある。父親を亡くした中で、記憶の断片、記憶の中のテキストの断片を、忠実にたどっていく。

ポーランド系ユダヤ人の移民の家系であるオースターの、過去へと遡行する試み。今なら、読める。

なぜ、ヘルダーリンが出てくるのか。早熟の詩人ヘルダーリンは、徐々に精神の失調をきたし、失語症になり、狂気を宿したとして塔の中にとじこめられた。けれど、そのいわゆる「後期」に書かれた言葉はまるで、太古から降りてきた言葉のように、失語症で書かなくなったヘルダーリンの手を動かして、いくつかの詩編へと結実した、という。

A(オースターのことだろう)の離婚、そして、マラルメの子どもが亡くなったときの詩編。ここは痛切だ。当時、これをフィクションとして読んでいた自分にはさっぱりだったこの詩編の意味が、今ならよくわかる。

「一八七九年十月六日、マラルメの一人息子アナトールは、長いあいだ病に苦しんだ末に八歳で亡くなった。小児性リウマチと診断されたその病は、四肢をじわじわと冒し、やがて少年の体全体に広がっていった。
(中略)
八月二十二日、マラルメは友人のアンリ・ロンジョンに宛てた手紙のなかで、『哀れな坊やが味わっている生と死の苦闘』について語り、さらにこう書いた─『だが本当の痛みは、この小さな存在が消えてしまうかもしれないことだ。私には耐えられない。とても直視する気になれない』」
(中略)
なぜなら、あとでわかったことだが、彼はあの瞬間はじめて、父たることの意味を十全に理解したのである。自分にとって息子の命の方がみずからの命よりも大切なのだということが、あの瞬間にはじめてわかったのである。息子を救うために自分が死ぬ必要があるなら、彼は喜んで死ぬだろう。
(中略)
いや─偉大なる死だの何だの
そんなものは
知ったことか─
─我々が生きつづける
かぎり この子も
生きる─私たちのなかで
(後略)


父だけじゃない。自分の過去や、一族の記憶をめぐるノンフィクションだった。ノンフィクションとして、この「記憶の書」を読むのなら、それら意味不明と思われた断片は、エフェメラルなものでありながらも、Aにとって貴重なドキュメントなのだろう。

どんよりとした冷たい午後の空気のなかを歩きながら、Aは突然立ちどまり、友に言った。今日から一年後に、僕たちの身に何かすごいことが起こるよ。僕らの一生を変えてしまうような何かがね。
一年が経ち、約束の日が来た。「すごいこと」は何も起こらなかった。AはDに、大丈夫、来年きっと起きるよ、と言った。二年目のその日がめぐって来て、やはり同じことが起きた。つまり何も起こらなかった。
(中略)
高校のあいだもずっと、二人はその日を記念しつづけた。
(中略)
年月が経つにつれて、二人ともその予言の記憶に愛着を感じるようになっていった。
無謀な未来。いまだ起きてない出来事の神秘。そういったものもまた記憶に定着しうることを彼は学んだ。そしてときおりふと思う。自分が二十年前に行なった、あの盲目的な子供っぽい予言、「すごいこと」の予視。精神が未知の世界めざし嬉々として跳躍する─その行為自体が「すごいこと」だったのだ。事実、もう何年も経っているのに、毎年十一月が終わりに近づくたびに、いまなお彼は、気がつくとその日のことを思い出しているのである。

フランシス・ポンジュとあったときのことも、感動的だ。若いころにちょっとだけ食事をして、フランス語で話した時の場所の記憶を、後年ポンジュはよく覚えていた。1996年の読書会のときにはフランシス・ポンジュなんていう人は知らなかった。今は『物の味方』も持っているし、彼の詩作についても多少の覚えはある。

ポンジュと握手しながらAは、たぶん覚えていらっしゃらないと思いますが何年か前にニューヨークで一度お会いしたことがあります、と自己紹介をした。いえいえ、あの晩のことはよく覚えております、とポンジュは答え、それからおもむろに、みんなでお茶を飲んだアパートメントについて話し出し、窓から見える眺めからソファの色、果てはそれぞれの部屋の家具の配置にいたるまで、ありとあらゆる細部を描写してみせた。Aはあっけにとられてしまった。たった一度見ただけの、自分の人生とつかのま以上のつながりがあったはずもない事物を、これほど精緻に覚えているなんて、ほとんど超能力のようではないか。彼は理解した。ポンジュにとっては、書く行為と見る行為のあいだに何の隔たりもないのだ。いかなる言葉もまず見られることなしには書かれえない。
(中略)
人間がおのれの環境のなかに真に現前しようと思うなら、自分のことではなく、自分が見ているもののことを考えねばならない。そこに存在するためには、自分を忘れなくてはならないのだ。そしてまさにその忘却から、記憶の力が沸きあがる。それは何ひとつ失われぬよう自分の生を生きる道なのだ。

そして、この「記憶の書」の結末。かなり難解で、何を書いているのかわからない。メッセージなるもののリーダビリティが求められる世界であれば、この一篇は、賞などとてもとれないだろう。それでもなお、この一篇が私たちをひきつけるのだとしたら、それは書く、書きはじめる、ということの宣言であり、根拠を創造したということだろう。

記憶の書物は孤独の暗闇においてのみはじまるのだから。

書き出すことは、孤独を発明し、孤独の中でそれに向き合うことである、という宣言のメッセージとして私はとらえた。まだわからない断片はいくつもある。けれど、いくつかの断片は、21歳の時よりは、わかる。

それはあった。それは二度とないだろう。思い出せ。

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