ドーピング (1分小説)
「確実に、オリンピックで金メダルは取れるが、5年後に死ぬ薬があったら、あなたは服用しますか?」
という問いに、オリンピック選手の53%が「YES」と答えたそうである。 (2004年 調査)
ここは、鏡張りの個室トイレ。係員が見つめる中、私は、自分の尿をカップに採取した。
「ハイ」
平静をよそおい、係員に手渡す。
コーチは、尿や血液には、反応が出ないカプセル薬だと言うが、本当にひっかからないのだろうか?
見つかれば、金メダルと世界記録は、はく奪。一瞬にして選手生命はおわり、日本の生き恥となる。
「表彰式が始まります」
係員に誘導され、スタジアムへ向かう。
私が場内に入るなり、割れんばかりの歓声がわき起こった。
一番高い表彰台へあがる。この瞬間を、何年間も夢見てきた。
と、とつぜん、2位の黒人選手が腕をつかんできた。
「日本人女性が、100m決勝で、1位なんてありえない」
あきらかに疑っている。
「何か、証拠でもあるわけ?」
TOEIC320点の英語で、言い返す。
あなたたちは、素質や体格が恵まれているのかもしれないけれど、私たち黄色人種が、短距離走で名を残すにはこの方法しかないの。
血のにじむような努力を、積み重ねてきた。ほんの少し、科学のチカラを借りただけよ。
心の中で正当化する。
「Gold Medalist is Yukari Wada!」
私は、満面の笑顔をつくり、観衆に手をふった。
【半月後】
マスコミも世間も、賞賛の嵐。どこへ行ってもVIP扱い。
しかし、心は晴れない。陰性結果も出たのに、走れない日々が続いている。
副作用?
「世界最高峰に一瞬でも立てたわけですから、満足しています。あと5年の命だということも、分かっています」
コーチには強がって見せるけれど、コントロールできなくなってゆく自分の身体が、怖い。
コーチは、一枚のデータを見せた。
『1988年 ソウルオリンピック100m決勝 9秒79 ベン・ジョンソン(ドーピング陽性により、はく奪)
2005年 アテネスーパーグランプリ100m決勝 9秒77 アサファ・パウエル』
「ドーピングをしても、記録はいずれ、正当に勝負した誰かによって、塗りかえられる。もともと、人間には、それだけの、強くて正しい力が備わっているということ」
そして、私が服用していた錠剤を、目の前で飲んだ。
「本当は、単なるビタミン剤。おまえは、薬なんて飲まなくても勝てるだけの実力はあったのに、『あの黒人選手には負ける』と思い込んでいたからな。
したくはなかったが、100%勝つ、という暗示が必要だったんだ」
どれだけ賞賛を受けても、にわかにしか喜べなかった心が、霧が晴れたように明るくなってゆく。
身体が軽くなっていく。
副作用と思っていたものは、罪悪感だったのか。
100%の確率で、金メダルを取れたとしても、選手の心までを完全に満たす薬は、きっと現れない。