漫画みたいな毎日。「四国から北海道へと春が来た。」
玄関のチャイムが鳴った。
宅配便です!
何か注文していたっけ?と夫と顔を見合わせる。
お荷物は3つです、と宅配便の方から受け取った荷物。
ひとつは二男へのプレゼントにメルカリで買ったレゴの本。
もうひとつは、いつも使っている調味料。
あとひとつは?
箱の宛名書きに目をやると、四国からの荷物。
差出人は、私が年長の時に1年だけ通った幼稚園の担任の先生からだった。
私の育った地域では、2年保育の幼稚園が主体だったが、私の世代は子どもが多く、私は幼稚園に入れなかった。というか、バスに乗って少し離れた私立の幼稚園であれば空きがあったようだが、母親に、「幼稚園に行きたい?それとも行かないでこの辺で遊んでる?」と聞かれて「行かない。」と答えたのだった。
今とは違って、外に一歩でれば子どもたちが公園やそこかしこで遊んでおり、遊び相手に困ることはなかった。そもそも、幼稚園が何なのかもわかっていなかったのかもしれない。でも、私は外遊びを満喫し、幼稚園に行かないことに不満も不安もなかった。
そして、就学を迎える1年前である年長の時に、歩いて通える一番近い幼稚園に入園したのだった。
その時の担任の先生が宮田先生。
「先生」と呼ばれる存在を知ったのは、幼稚園が初めてだった。
集団生活は初めてだったが、実はあまり記憶がない。
覚えているのは、お遊戯会で腰にすずらんテープの腰蓑を付けて、
「南の島のカメハメハ大王」を踊った事。
夏に屋上の大きなビニールプールにパンツは一丁で入り、ドジョウすくい大会をしたこと。この時の記憶だけは鮮明で、小さな子どもたちに踏まれてお亡くなりになったドジョウたちが、あちらこちらにぷっかりと浮かんでおり、真夏の暑さとドジョウ特有の匂いがいつまでも忘れられず、ドジョウが苦手になった。
宮田先生はやさしかった、と記憶している。うさぎ小屋の掃除をしていて、逃げ出したうさぎを捕まえようとして、お尻を噛まれた時には、慰めてくれた。
唯一、怒られたというか注意されたのは、持っていったお弁当に入っていたお肉が食べられず、幼稚園で飼われていて、好きだった犬にあげた時だった。私は幼少期、肉が食べられない子どもだった。
「何をどれくらい食べたか、お家の人に見てもらわないといけないから、勝手にあげたら駄目だよ。」と言われた。
しかし、お弁当の時間にどうやって教室を抜け出し庭に行ったのか、覚えていない。年長組の教室は2階だった。今、教室から子どもが居なくなったとなれば、大騒ぎになるだろう。昭和のゆるさだろうか。大騒ぎになった記憶もない。単に忘れているだけなのかもしれないけれど。
私は幼稚園を卒園し、宮田先生は、ご結婚されるとのことで郷里の四国に帰られた。
そこから、現在に至るまで、先生とは一度もお会いしていない。
小学生の頃は、お手紙を出したりしていたが、今は、年賀状のやりとりだけである。
年に一回のやりとりを、かれこれ40年以上している。
2018年9月6日の胆振東部地震。 被災地では多くの方が亡くなられた。そして、他の被害の1つが「ブラックアウト」ではないかと思う。 一時、道内で最大295万世帯が停電してしまった。我が家でも停電により、あらゆる電気製品は使えなくなり、非常用のライトやキャンプ用のライトで夜を過ごした。真冬であれば、灯油ストーブも使えなかったのだと思うと、災害時の備えを日頃から心しなくてはと思った出来事だった。
ブラックアウトから数日がたち、日常の生活が戻りつつあった頃、
宅配便が届いた。
「愛媛みかん」と書かれた大きな段ボールだった。
宛名を確認すると、宮田先生であった。
私は宛名に書かれていた電話番号にお礼の電話をしてみることにした。
40数年ぶりに聞く先生の声。
「地震、大変だったでしょう。お見舞です。」と。
特に長く話すこともなく、私も簡潔にお礼を述べ、お元気そうでよかったです、お身体ご自愛ください、と電話を切った。
段ボールには、良い香りのみかんがたくさん詰まっていた。
そして、今日。
四国から届いた箱の中には、「せとか」や「デコポン」などの柑橘類が詰め合わせられていた。
「年末に体調を崩し、新年のご挨拶ができませんでした。ゴメンネ。今は元気!!もう春ですよ。今年も頑張りましょう。」
書くことに慣れた美しい文字が、可愛らしいクマのプーさんのメモに記され、添えられていた。
宮田先生、お元気で何よりです。
春が少しづつ近づいている北海道からも、何か美味しいものを送りますね。