漫画みたいな毎日。「不機嫌で居たい、そんな日もあるよね。」
昨日の二男は、寝起きからずっと、ご機嫌斜めでした。
二男は、基本的に機嫌の良い人です。
〈地顔が笑顔〉みたいな様子で、救われる事も沢山あるのです。
ま、たまに、こんな日もある。
ドアをバタンと強く閉めてみたり、階段をドスン、ドスン、と大きな足音をさせて上り下りする。家が古いので、とても響く・・・。
さらに、誰の問いかけにも、不機嫌な顔で対応し続ける。「はぁ?」とか「あぁ?」みたいな、ガラの悪い返事しかしなくなる。
こういう時、「どうしたの?」とか「何かあったの?」とか声を掛けても仕方ないよねぇ、と思うのです。
本人にさえ、理由がハッキリとしないこともあるだろうし、
何よりも、彼は、「今、自分は、不機嫌で居ることに決めてる」。
そんな風に感じられました。
昨日は、二男が、月三回通っているギターのレッスン日でもありました。自力で通うには、やや不便なところにあり、夫か私が車で送迎をしています。
出発時間を知らせ、「間に合うように準備してね。」とだけ言っておきましたが、私や夫が送迎に出る準備をし、車を出し、出発できるようになっても、二男は、一向に支度をする気配がありません。
夫と私は、「車で待ってるよ。」とギター教室の近くのショッピングセンターに母と買い物に行くと言う末娘を車に乗せ、車内で待っていましたが、ちっとも出てくる気配がありません。
二男は、時計が読めるし、レッスンで先生が待っていることも知っている。
彼は彼で、自分でどこかしら折り合いをつけるはず。
レッスンの時間ぎりぎりでも、間に合えば、なんの問題もないのです。
引き続き、車の中で待っていると、ぶすっとした顔で二男が玄関から出てきました。
寒いのに、上着もはおらず、靴下も履いていない。
「自分がそれで大丈夫なら、いいよ。車に乗って。」と夫が静かに声を掛けると、またプイッと家の中に入ってしまいました。
数分して、靴下を履いて出てきた二男。上着は羽織っていません。車には、かろうじて乗ったけれど、助手席のドアを閉めない。寒いんですけど。
私は、二男の上着を取りにいくため、車を降り、ついでに、二男の乗る助手席のドアを閉めました。
二男は引き続き、仏頂面。
玄関から家に入ると、長男が「どうしたの?」というので、二男の上着を取りに来たと伝えると、「あ~持ってくるよ。」と、昨日の雨で濡れたので干していた上着を取りに行ってくれました。
不思議なのは、三人兄妹の中で、誰かひとりが猛烈に機嫌が悪い時には、他の二人まで機嫌が悪くなることはないという事です。それなりに、状況を見て、気を遣ってくれているのかもしれないなぁと思います。そのことに、かなり助けられています。
ギター教室に着くまでも、一言も発しない二男。
そして、レッスン5分前に到着し、車を降りるように伝えると、
「足が寒い。」
はい?
「足が寒い。」
夫が寒いから膝掛けをかけたらと、言っていたのですが・・・。
何にしても、文句をつけたい二男。
「部屋の中はきっと暖房で温まってるんじゃない~」と言うと渋々車をおり、レッスンに向かいました。
そして、ギターの先生に会った途端、つり上がっていた目は、いつもの垂れ目に戻り、何事も無かったようにレッスンの部屋に入って行ったのでした。
30分後にレッスンが終わると、何か歌を口ずさみながら部屋から出てきて、「あ、先生にバイバイってしてなかったからしてくる!」と駆け足で戻って行きました。
朝の不機嫌など、まるでなかったかのように。
自分の子どもの頃を振り返ると、不機嫌まではいかなくとも、なんとなく気持ちが乗らないことは、当然ながらありましたし、思春期ともなると、気に入らないことだらけだったと思います。
私や姉が、仏頂面をしていると、「またそんな面白くない顔して!」と怒られた覚えがあります。理由も聞かれず、(理由を聞かれても明確なものはなかったと思いますが・・・)頭ごなしに怒られていました。
頭ごなしに怒る母親は、不機嫌になる事が多く、不機嫌の要因は自分ではないだろうか、と子ども心に思っていました。
その様な環境で育ったことも関係してか、大人になっても、しばらくは、〈不機嫌になることは、いけないことである。〉と思っていたし、〈誰かが不機嫌になるのは、自分のせいではないか?〉という、罪悪感に苛まれていました。
大人になり、親と呼ばれる立場になって、不機嫌になる子どもたちを見ていて私が思うのは、「まぁ、誰でも、機嫌が悪いときもあるよね。」という事と、「私自身が、誰かの不機嫌に振り回されたり、それに対して罪悪感を持つことはない。」という事です。
そう思えるようになってから、いろいろなことが楽になりました。
機嫌が悪い人がいると、その場の空気が悪くなり、それは辛くはないか、といったら、否です。
でも、誰にでも自分の気持ちや機嫌がどうにもならないこともあるし、それに対して私がどうにかできることではないことも沢山あります。
そんな時は、「不機嫌で居たいんだね。そんな時もあるよね。」とか、「何かあったのかもしれないなぁ・・・」と不機嫌な人の置かれている状況を最大限想像しつつ、その存在をちょっと遠くから眺めるような気持ちで過ごすようにしています。
多分、不機嫌で、一番辛いのは、不機嫌で居るしかない自分自身なのだと思います。
だから、私ができることは、不機嫌な空気が時間の上を流れるのを感じつつ、その流れがふと変わる瞬間が訪れるのを待つだけ。
子どもたちは、〈子ども〉と呼ばれる時代に、親や家族、周囲の人に受け入れられながら、十分に〈なんだかわからないけど、おさまらない、不機嫌な自分〉を味わったらいいと思うのです。
そして、大人や周囲の人は、不機嫌で居ると決めている子どもたちを、全てが矛盾していると感じる思春期の子どもたちを、「そういう時期だよね。そういうこともあるよね。自分もそうだったなぁ。」と、さらりと受け流していけばいい。
機嫌が良くても、悪くても、子どもたちが大事な存在であることは、揺るがないのだから。
子どもたちが、成長し、大人になった時に、〈不機嫌で居ると決めた子どもの頃の自分〉を思い出し、ちょっと決まりが悪くもあり、でも懐かしく思うことがあるかもしれない。
今、子どもたちが、「不機嫌で居ることを決めた今日」は、きっと、そんな日に続いているはずだから。
もしも、願いが叶うなら、すべての子どもたちが、不機嫌をやりきって大人になった世界を見てみたい。
不機嫌である自分をも十分に受け入れられ、不機嫌も思春期も、やりきった子どもたちは、どんな世界を創っていくのだろう。
そんなことを思いながら、不機嫌で居ることを決めた日の二男を、静かな心持ちで眺めていたのでした。