なんでもないことをつらつらと。「Aセットにしますか?Bセットにしますか?」
夫がFBで7年前の自身の記事を振り返り、こんなことを言っていた。
選べる状態にあって、それを選ぶか選ばないか、ということ。
〈できる〉けど、〈やる〉か〈やらない〉かは、また別の問題だったりする。
この記事の話をしながら、夫は、「あれから7年とか経ってて、長男が小学校に入学してから10年近く経ってるけど、『不登校』が一括りっていう現状はあんまり変わってないよね。」と言った。
まぁ、そういう部分もあるだろう。でも、長男が小学校に入学した頃は、もっと登校刺激と言われるような働きかけが活発だったと認識している。「学校、いつから来られそうかな?」みたいなやつだ。先日、長男と話をしたときにも、「やっとそういうもの緩くなってきた感じするよね」と言っていた。この10年で、「不登校の子どもが学校に通えるようになることが最終目的ではない」というような〈おふれ〉が教育委員会から出されたことも大きいのだろう。だからといって、人々の意識がすぐに変わるわけではないので、やっぱり〈不登校=学校に行けない子ども〉という認識なのだと感じることもある。〈学校に来られないなんて大変だね、学校に来られるといいよね〉みたいな暗黙の型はまだまだ消えてはいないだろう。
何度も書いているのだけれど、不登校といっても、本当に理由も形もそれぞれで、一括りにはできないものだと思う。
そして思うのは、できる限り、子どもたちが苦しくない状況で日々を送ることができるといいなということだ。学校に通っていても、通っていなくても、楽しいことも、楽しくないこともあるけれど、その中で、子どもたちが日常を安心して過ごせたらいいなと思う。
選べるけど選ばない、というフレーズでこの所思うところがあるのが、医療の選択についてだ。
自分で選べますよ、と言われているけれど、実際、選べると言われつつも、選ぶのが難しいこともあるなと感じる。「私はAセットを注文したいんです!」と申し出ても、「え~それはオススメしませんけどね!絶対。Bセットでいいじゃないですか。なんでBセットじゃダメなんですか?!」のようなことを平気で言われたりする。頑なにBセットを拒否しているわけではなく、Aセットを試してみて、それでいまいち口に合わないわ、ってことであれば、Bセットとか、まだお腹に余裕があるんで~と、Cセットとかを選んでもいいんですよね?と思っているだけなのに。
往々にして、一般的に人は病院や医師というのは、権威ある存在だと思っている場合が多い。そのため、相性もあるがー医師の圧に負けてしまうことも多いのではないだろうかと思わないでもない。もちろん、信頼に値する医師や病院もあるが、そもそも、人間的に信頼できる医師は、そのような圧を掛けてくることはまずないのだけれど。
『できない』と『別の選択をする』ということは別。
医療や医師を批判するつもりは毛頭なく、選択肢があるならば、多くの選択肢を提示してもらい、アドバイスをもらいつつ、手助けをしてもらえたらベストだと思っている。その上で、できる限り自分の意志で選びたい。それがもし最終的に、「だから言ったのに!」と言われる結末を迎えるとしても、その時に自分で決めたという覚悟が自分を支えるし、誰かに責任転嫁することを防ぐのだと思う。
〈できない〉と〈別の選択をする〉ことが別物であるように、〈他者に選ばされる〉のと〈自分で選ぶ〉のでは、雲泥の差なのだ。
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