漫画みたいな毎日。「良いも悪いもない。そこにあるのは、ありがとう。」
ららみぃたんさんのこちらの企画の記事を読ませていただき、色々考えた。
そして、このお二人の素晴らしい記事。
素敵なお二人が、この記事を書いてくださった時点で、もはや「我が人生に悔いなし!」と、漫画・北斗の拳のラオウのように天に拳を突き上げた。
しかし、愛に溢れる紹介士・ららみぃたんさんの初企画、応援したい!という気持ちに駆られ、書く決意をした。長文になってしまったが、最後までお付き合いいただければ幸いである。
人とは、ジャッジしがちな生き物だと思う。
育つ過程で、何かと評価され、誰かと常に比べられがちであることも影響しているのではないだろうか。
私もそのような場を沢山経験してきた。
そして、自分の中であらゆるジャッジをしながら生きてきたと思う。
何故なら、ジャッジしなければ生きにくかったから。
何かをジャッジすることで、自分の正しさを証明し、他の人よりも自分を優位だと感じる必要があり、自分の居場所をつくりたかったのだろう。
私には、安心出来る居場所が無かった。
ずっと息苦しさを感じていたが、様々な人に出会い、日々の経験を重ねる中で、「どちらがよい」より「どちらもよい」と感じることは、自分の呼吸を楽にすると思うようになった。
今回、書かせていただくのは、そのきっかけとなった出来事の中のひとつ。
遡ること、20年ほど前のことだ。
長男が生まれるより更に昔、私は常に身体の不調を抱えていた。
肩が凝る、脚が怠い、頭が痛い、寝ても寝ても眠たい。とにかく何をするにも身体が重たい。
「怠い」「疲れた」が口癖だった。
週3回、整体や鍼治療に通い、なんとか仕事に通っている状態だった。
「治療家の先生に、なんとかしてもらおう」という依存的な部分が大きかったことに気がつくのは、もう少し後のことだ。
保育士の仕事では、体力を使う以上に、精神的な負担、人間関係の負荷が私を襲っていた。
週末になると、何処かに出掛けて気晴らしする余力もなく、昼過ぎまで寝ていることも多く、持ち帰りの仕事もあり、常に仕事のことが頭から離れない状態が続いていた。
身体と心は繋がっている。
心が辛いなら、身体も辛くなる。
身体が辛いなら、心も辛くなる。
身体は滞り、体重も増加の一途を辿っていた。そして、精神的に限界が来たと感じ、仕事を辞めた。
そんな時に出逢ったのが、〈マクロビオティック〉だった。
「玄米を食べてみたら?」と当時お世話になっていた整体師の方にアドバイスされ、試してみようくらいの軽い気持ちで玄米を食べ始めた。
すると、徐々に体重は減り、身体は軽くなってきた。思考もクリアになり、今までは無闇に先を心配したり、自分に向き合えないことから起きた出来事を誰かのせいにしていた自分に気がついた。
私は心身共に軽くなっていくのを感じていた。
玄米を食べることが日常となると、肉や魚や卵・乳製品などの動物性食品が重たく感じられ、「玄米とは、合わないなぁ。」と思うようになった。
夫は喘息があり、卵などの複数の食品アレルギーがあった。アレルギー検査の数値もかなり高かった。夫の玄米好きは私以上で、玄米菜食の食事を心から喜んでいる様に見え、私も菜食生活で工夫することは楽しいと感じいていたので、「美味しいものを作りたい」と日々レシピ本を開いては料理をしたり、マクロビオティックの料理教室に足を運んだ。
こうして、冷蔵庫から動物性食品が、自然に、ゆっくりと、姿を消していった。
私と夫は「美味しいこと、楽しいこと」を大事にしたいと感じていた。
その頃、よく耳にしていた、マクロビオティックに対する〈我慢食でしょ?美味しくはないんじゃない?〉というイメージは、自分たちの生活にはそぐわないねと、「食べねばならない」「食べてはならない」という観点ではなく、「楽しく、美味しい。身体も楽。だから玄米菜食。」をモットーにしていた。
その楽しさを伝えたくて、玄米おむすび屋を立ち上げるに至ったのだが、このことは、また別の機会に書いてみようと思う。
子どもたちが生まれても、その生活は変わらなかった。アレルギーの遺伝も考え、3歳くらいまでは、アレルゲンになりやすい食品を避けるのが無難だと小児科医から指導もされていたからだ。
しかし、長男や二男が大きくなるにつれ、自分で食べるものを選べると感じていたので、「あれは駄目、これは駄目」という大人の勝手な感覚は不要だと感じる様になっていた。
いただきものをしても、「食べる」「食べない」と子どもたちは自分で自分の食べるのものを決めることができる。それは、野菜だろうと、肉や魚だろうと、お菓子だろうと、同じだった。
身体は大自然の叡智の塊である。
余計なことをしなければ、自分に何が必要で、何が必要でないかを、自分の身体の声を聴くことにより知ることができると思っていたのだ。
子どもたちは、自分で選べる。
幼稚園でも、学校でも、社会でも、外に出れば様々な暮らし方をしている人が居て、食生活も様々だ。
特に「食」は、生きることや生い立ちと直接的な繋がりを持っているので、その人の根源的な何かに影響しかねない。そのため特に自分たちの食の形を主張することも公言することはしなかった。私たちが「菜食である」ことが、無意識にも、菜食でない人を責めていると受け取られることがあったからだ。
「我慢して、つらくない?子どもたちにも我慢させているんでしょ。」と言われることも何度かあった。私は、そのような意識がなかったので、当時はその言葉に少なからず驚いた覚えがある。我が家としては、「美味しい」「楽しい」を大事にしたいと思っていたから。
幼稚園には厳しく菜食に取り組む家庭もあり、子どもたちは、お菓子などを食べることも制約があったようだった。そのような家庭の子どもたちの多くは、親に隠れてお菓子を食べていた。親に知られたら怒られると思っているからだろう。
子どもたちの友人関係が発展すれば、お菓子をやりとりする場面も出てくる。それはそれで、大事な交流である。子どもたちには、「何かをもらったら、お礼をいったりするから、もらったときは教えてね。」と話していた。
子どもたちは、どんなものも、食べてみて自分で判断していた。それによって、鼻血をだしたり、体調が悪く感じるなどして、自分の身体と対話していたのだと思う。現在も、親が何も言わずとも「口内炎が出来てるから、甘いものはやめておくよ。甘いもの食べない方が早く治るから。」と言ったりする。自分で食べたものと、身体の状態が結びついているのだと思う。
「自分の身体の状態が心地よいと自分のやりたいことができる。」
子どもたちは食を通じて、このようなことを感じているように見受けられる。
しかし、一方で、マクロビオティックを続ければ続けるほど、無意識に「動物性食品は食べるべきではない物なのでは?」「身体に良いもの以外に選択肢はないのではないか」と思っている自分がいることに、気がついていた。
マクロビオティックでは、「中庸」を良しとしているのに、私の中では「マクロビオティック以外は良くないのでは?」と、どこかで思っていたのだと思う。
肉を見たら、「私たちは食べられない」と思い、食品表示を見ては化学調味料や動物性食品が入っていると、残念な気持ちになった。
動物性食品を食べることは、「悪いことである」と心の何処かでずっと思っていたのだろう。
心がザワつく。
そういった私の潜在意識が、菜食でない食事の方々を知らないうちに責めてしまっていたのかもしれない。
だから「我慢しているんでしょ。」という言葉を投げかけられたのだろうと、その時を振り返る。
マクロビオティックとの付き合い方に大きな転機が訪れたのは、第三子の妊娠中だった。
三人とも妊娠中の悪阻はひどく、水も飲めなくなる。だいたい悪阻の時期には10キロ以上体重が落ちる。末娘の妊娠初期は今までで一番悪阻がひどく、点滴を受けるほどになっていた。
そして、妊娠4ヶ月が過ぎても、食欲が湧かず、食べたいと思ったのは、「玄米」や「野菜」ではなく、「卵」や「肉」だった。
あぁ、そういうこともあるのね。
私は静かに受け止めた。
身体がそれを求めている。
従う以外に私に選択肢はなかったし、拒否する気持ちもまったく起きなかった。
私の身体は、肉や卵を欲している。
ただそれだけだった。
末娘は我が家で一番、肉が好きだ。
そして、成長期に差し掛かる男子二人も、今までよりも肉や魚、卵を好んで食べている。それが、自然な流れなのだなと思い、今までは動物性食品を使わず作って来たものにも、肉や魚を使うようになった。
今まで通り、野菜もたくさん食べる。
玄米も胚芽米も白米も食べる。
お肉も魚も乳製品も食べる。
すべて美味しくいただく。
様々なものを口にし、それらが身体の一部になると、私はあらゆることから開放された気がした。
すべては、私の一部だ。
ある時、決定的に違和感を覚えた言葉があった。
「マクロビオティックは正食だからね。」
意味としては、自分を正す食事、ということになるのだと思う。
「正食」とは、本来の自分の位置に戻っていく食事という意味だと私は捉えている。
しかし、理解の度合いによって、「正しい」という言葉だけを引き合いに出せば、「正しくない」が生じてしまう気がしたのだ。
病に罹ってしまい、自分の身体をリセットする為に、一時的に食事を制限したりすることは、有効である場合もある。そもそも、マクロビオティック自体、動物性食品を禁止しているわけではないのだ。
野菜も美味しい。
肉も魚も、卵も、チーズも美味しい。
もちろん、お米も大好きだ。
パンもとても美味しい。
カフェオレも好きだ。
しかし、どんなに好きな食べ物も、体調によっては、食べたくないなと感じたり、重たいと感じることもある。
私は元々、牛肉が身体に合わないようで、食べるとお腹を激しく下してしまう。顔色が真っ青になるくらいの腹痛に襲われるのだ。二男も牛肉や牛乳にアレルギーがあったり、長男は小麦粉にアレルギー反応があるので、控え目にしたりはする。
だからといって、牛肉や牛乳や小麦粉がダメ、悪いのではない。
今、私の身体には合わない現状である、というだけだ。
私たちの身体は、自分でその都度、必要なものを判断しているのだと思う。
でも、それは決して、〈良し悪しというジャッジ〉ではない。
身体の声を聴いて、美味しく、いただく。
それによって、私は、本当の意味で「真ん中」を知った気がしている。
真ん中の食事に、良いも悪いも、ない。
一緒に食卓を囲む好きな人たちに、
作ってくれた人たちに、
いただく命に、
〈有り難いもの〉という気持ちだけが湧いてくる。
そこに良いも悪いもない。
多くの命に生かされているという事実があるだけだ。
私は、170万種の生き物の中のひとつ。
とても小さな存在だ。
私の真ん中にあるのは、そんな気持ちだ。
ららみぃたんさんの企画を読ませて頂いた時に、「何か書けたらいいな」と思う気持ちと、「どう書いたらいいだろう」という狭間を行ったり来たりしていた。一元観ってなんだろう?と自分の中の記憶や体験の中を泳いでみたり、ぐるぐる彷徨った。
「食」のことを書くかどうか、ということは、私の中で、常に迷う事柄のひとつだ。
ストイックに玄米菜食を取り入れていたこともあったが、記事の中にも書いたように、「食」というのは、人にとって根源的な部分に触れる、物凄くナイーブな問題だと思っている。「食」のことを書くのは、読んだ人を無意識にも傷つける要因が多いと感じているからだ。
誰しも何かを口にして生きている。
何かを口にせずには生きてはいけない。
食と生は切り離せない。
だからこそ、良し悪しではないと感じている。
どんなものにも、その背景に作っている人、生きている動植物やそれに関わる人がいてくださって、その方々や動植物、様々な恩恵を私たちは受け取っている。
その事実を、大事にしたい。
私はマクロビオティックが好きだ。
マクロビオティックに関わりることで、素敵な出逢いに恵まれた。
今もその出逢いが私を支えてくれている。
食事を作る喜びを知った。
作ったものを喜んで食べてくれる人いる幸せを知った。
私の身体が食べたもので構築されていることを体感した。
そして、私の生きる世界には、美味しい魚や肉やチーズ、お酒やスイーツがあることも知っている。
どちらも、美味しく、私を幸せにしてくれる。
そうやって、日々の中の様々の方向に伸びている道の「真ん中」を、ぐんぐん歩いて行きたい。
美味しいものを感謝と共に味わいながら。
ららみぃたんさんの趣旨に合った内容が書けたかどうか、ちょっと不安もありますが・・・。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ららみぃたさん、素敵な企画をありがとうございます♪
感謝と愛をこめて。