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漫画みたいな毎日。「いのちのしりとり。」

道端に、命を終えた虫たちの姿を目にする。

蟻であったり、飛蝗バッタであったり、蝉であったり・・・
末娘は、その姿を見つける度に、しゃがみこんで、じっと見ている。

「かわいそう。」

その場に遭遇した末娘の第一声は、ほぼ、「かわいそう」である。


私は、長男が今まで虫を飼って命を終えたり、飼い方が上手く行かず、結果として死んでしまった時にも、「可哀想」という言葉を選択してこなかった。気をつけて選択しないようにした、というのが正しいかもしれない。

長男から、生き物の死に関して、「可哀想」という言葉を聞いた記憶がない。彼の様子を見ていると、様々な感情を抱いているのだろうと感じるので、その感じている時間を邪魔しないようにしてきた。

これは、生き物の話に限らないのだが、「可哀想」という、言葉で一括りにしていいものだろうか、と思うからだ。私が「可哀想」という言葉を選ぶことで、その存在が「可哀想な存在」となってしまうことがある。

生き物の命が終わることは、本当に可哀想なことなのだろうか。

子どもに対して、少なからず影響力を持つ親という立場にある私が、生き物の死に対して、「可哀想」を貼り付けたくないと思う気持ちもあった。子どもたちが自身で、「これは、かわいそうなことだ。」と認識したのであれば、「かわいそう」と表現したらいい。

そもそも、〈可哀想〉とはどういうことなのだろう。

〈可哀想〉という言葉の中にも、様々に繊細で複雑な気持ちが入り混じっていると思う。気の毒だと感じる気持ちや、やるせない気持ちや、切ない気持ちや、慈しむ気持ち・・・だからこそ、子どもたちの心のヒダを、すぐに一言で単純化しないようにしよう、と思っている。

末娘の「かわいそう」にも、まだ言葉では現すことができない、心の中の機微が含まれているのだと思う。でも、今は、「かわいそう」という言葉で表現しているに過ぎないのだろう。


昨日、蝉の抜け殻を探しながら、樹の根元に命を終えたアブラゼミが居た。身体の柔らかな部分だけを、何かに食べられた様で、空っぽになっていた。

それを見た末娘は、「お母さん、セミ、可哀想だけど、誰かの役にたつんでしょ。」と、その蝉の亡骸を手にもって、私に視線を向けた。

「そうだね。みんなそうやって、死んだら食べられたり、うんちになってまた土に還ったりするね。そうやって、ぐるぐるしてず~っと続いてるんだよね。」と答えた。

すると、末娘は、こう言った。

「しりとりみたいだね。」

最近の末娘は、〈しりとり〉に凝っている。

車の中でも、食事中も、眠る前の布団の中でも。
突然に、〈しりとり〉がはじまる。
末娘は「ん」で終わる言葉を選ぶのが上手い。
しりとり的には、よろしくないのだが、面白いので、良し。
造語も多い。
なんとかして、しりとりを続けたいという意志を感じ、面白いので、良し。

いのちのしりとり、か。

そうやって、いのちは脈々と続いているのだ。死んだら、誰かの栄養になったり、土還ったりするのだ。そしてまた何かしらの命の源へとなっている。

「人間だけ、そのしりとりの連鎖から外れてしまっているんだよね。」

末娘とのやりとりを聞いた夫はそう言った。

人間として、その連鎖の環に入るのは、現状として難しいのだとしたら、
せめて、その〈いのちのしりとり〉を邪魔しないようにしなくてはならないのだろう。

「あ、ダンゴムシ!」

小さな掌の上でまるまるダンゴムシを愛でながら、「きっと、おうちでお母さんが待ってるよね。バイバイ!」と草むらにダンゴムシを戻す末娘。

あなたの中の〈成長のしりとり〉も邪魔しないようにしなくてはね。

ダンゴムシとミミズをこよなく愛でる末娘。


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