漫画みたいな毎日。「長月去り、神無月来る。」
何故だろう。
毎年、9月と10月は慌ただしく過ぎていく。
北海道にしては長く暑い夏が終わり、ほっと一息つく間もなく、9月はやってきた。8月の最終日に姪がやってきて、その2週間後に姉がやってきた。
その間に夫と末娘の誕生日を祝い、姉が本州に戻った日には、翌日の幼稚園の誕生日会の為の衣装を準備し、その3日後は幼稚園のお祭りだったので焼菓子を出品する算段に追われた。
こう書いてみると、毎日予定が入っていたわけではないのだが、小さかったり、大きかったりすることが、いくつもいくつも起き、それらが様々な方向から積み重なり、一日という時間が織りなされていたのだと実感する。
スケジュールが詰まった状態が得意ではなく、出来る限り予定を詰めたくない。
スケジュールの空欄があると不安になるという人が存在すると知ったときは驚いた。スケジュールの空欄が埋まる方が不安だ。
「こんなに予定が詰まっていたら、息ができなくなるのでは?」
そんな気持ちになる。
カレンダーに子どもたちの予定、大人の予定を大雑把に書き入れているが、
空欄をみると落ち着く。予定の詰まった状態が苦手だ。動くことが苦手なわけではないし、どうしてもそうしなければならないことが大人としてはあるので、動く。埋め尽くされたカレンダーもスケジュール表も、何かに縛られるように感じる。押し迫ってくる感覚が苦手なのだろう。
夫と「家」の話をすることがある。
例えば、家を建てるとか、建てるなら平屋に憧れるとか、キッチンと収納庫はしっかり考えたい、水回りは大事だよねなどと話をするが、今のところ家を建てる予定も、購入する予定もない。
今、住んでいる家は、借家で、古い一軒家だが、大家さんが水回りをリフォームをしてくださっていたので、使い勝手も悪くない。実際の大家さんは高齢で管理していらっしゃるのは、そのお子さんたち、と言っても私たち夫婦よりも世代は上なのだが、持ち主であるお母様がご高齢なので、いつかはこの家も売るか、更地にして販売を考えているというお話をうかがったことがある。私たちにも購入の意志があるか、すぐではないけれど、考えてみてください、というようなお話をいただいたこともあった。
家を持つ、という経験がないので、その感覚がピンとこない。
夫が「家を買うと、そこに縛られる感じがするから嫌なんでしょう?」と、私に言うのだが、確かにそう感じる部分もある。
実際は、今の時代、家を買ったからといってその土地や家に縛られることもないのだろう。おそらく、貸したり、売ったり、色々な手段があるのだろう。それでも、大きなものを持つということにプレッシャーと窮屈さを感じる。
来世があるなら、遊牧民として暮らしたい。
社会で生きていく大人として、予定があったらこなしていくし、時間の管理もしていく。どんなに予定が詰まっていても、窮屈でも、ギリギリでも、やればなんとかやりきれることも知っている。
でも・・・出来る限り、のんびりしたい。
「今日は何をして過ごそうか、」と目覚めてからゆっくり考える日が好きだ。
子どもたちが学校に行っている家庭から比べたら、我が家は、まったく忙しくないのだろうし、塾や習い事に追われているわけでもない。
息をする隙間
動物は、息をしなければ死んでしまう。
吸って 吐いて また吸って
なんでもないように見えるこの行為が私たちを生かしている。スケジュール帳の空欄は、私にとって呼吸なのだろう。
吸って 吐いて また吸って
空欄が埋まっていくカレンダーを見つめながら、私は息をする隙間を確認する。