学校に行かないという選択。「分子が移動する音が聴こえる。」
「お母さん、錫のお皿作りたい。」
大体において、長男の発言は何の前置きもなく、突然だ。
錫のお皿????なんでまた急だな、と思い説明を求める。
知人の家にお邪魔した際に、「ワークショップでこんなものを作ってきたよ。」と素敵な錫のお皿を見せていただいたそうなのだ。
夫も一緒に伺っていたので、詳しく聴いてみると、区内の芸術祭関連で、普段はオープンしていない様々な工房で、ワークショップを行っているとのこと。その一環で、金属工房で錫のお皿作り体験が出来るよ、ということである。
時間があれば、錫を溶かして、錫板を作るところからやらせてもらえるということで、早速、工房にワークショップの空きがあるかを確認する。
予約できるかをメールで問い合わせると、大変ご丁寧な返信が返ってきた。
小さなお子さんも、大人がつけば体験できますので、ご安心ください、キャンセルなど急な変更も遠慮なくご連絡ください、と。
その文面からも工房の方のお人柄が浮かび上がる気がした。
当日、今まで何度も通ったことのある道を車を注意深く走らせる。
こんな所に工房があったのか・・・意識しないで見過ごしていることは、日々の中で山程あるのだろうなぁ、そんなことを思いながら工房の扉を静かに開け、「こんにちは。」と声を掛けた。
すると、奥の方から、「はい」と返事があり、訪問者の声にやや慌てているけれど、決して忙しくない様子で工房の方が出てきてくれた。
ちょっとした動きにも、その人の考えや、生活や、生き方みたいなものが現れる気がする。「狭いですが、どうぞ。」といって中に案内していただく。
工房はご夫婦での経営。奥様は七宝焼やシルバーなどでアクセサリーを製作され、その作品が所狭しと並んでいる。
シルバーアクセサリーの中でもピアスは植物をモチーフにしたものが多く、そのデザインの多くはアシンメトリーである。あぁ、素敵。自分が買うならどれかな?と妄想するのが楽しい。
左右対称、シンメトリーのものは、整って居て、バランスが取れたデザインとなり、安定感があるため、人の注目を集めやすいという特徴があるという。企業のデザインなども取り入れているところは多いらしい。
しかし、私は、アシンメトリーのものが好きだ。
気がつくとそういったデザインのものに惹かれている。髪型でも、アクセサリーでも、洋服でも、靴のデザインでも。
整った「整っていなさ」、整っていないことからくる美しさ、みたいなものがある気がするからかもしれない。
今回、お皿作りを教えてくださるアーティストの方は、金属を主に扱っているとのこと。銅であったり、錫であったり。
金属をつかったオブジェが工房に飾られていた。家の表札を依頼されることもあるらしく、名前の周りに葉っぱのモチーフが施されたものなどが展示されていた。
「お時間があるなら、是非、錫板を作るところから体験していただくのをお勧めしています。」とおっしゃっていただいていたので、錫のお皿の元となる、錫板の作り方を教えていただく。
錫の塊を持たせていただく。なかなかずっしりと重たい。その錫インゴットは純度が高く99.8%錫なのだそうだ。アーティストの方が、出来上がった錫板を見せてくださる。板を手にし、ゆっくり曲げると、何かが軋むような音が僅かに耳に伝わる。
「聞こえます?この音は、錫の分子が移動する音です。」
分子が移動する音?
理数系とはかけ離れた世界に住んでいる私の中に、この言葉が静かに入ってきた。
分子が移動する音。
分子が移動する音。
声に出さず、繰り返す。
錫の沸点は約231.9℃。お鍋に入れて加熱し始め、暫くするとゆるゆると溶け出す。それを、アーティストの方が自作した型の流し込む。
型を見せていただいたが、ちょっと変わった音符みたいな、不思議な形をしている。
何故そのような形になったかというと、錫を流し込み、一番下の円形の部分に到達するまでに、錫の中に含まれる僅かな不純物が途中で固まって行き、最終的に円形の部分に液体のように溶けた錫が辿り着くころには、純度の高い錫となっているのだそうだ。
「この型が今のところの、ベストですね。50型くらい試作して、これが一番いいかなと思っています。」
型の内側には和紙が貼られていたのだが、それは、和紙の方が融点が高いので、型が燃えることを防ぐことと、錫の表面に和紙の模様が移り、味わいとなるので、そのようにしているそうだ。
長男から順番に溶けた錫を流し入れる。
あっという間に錫は固まり、型から外すことができる。お皿となる円形の部分を金切り鋏で切り出す。ここから木槌で打っていき、お皿を形作ることになる。
この錫板作りも、一度で、うまくいくとは限らない。
溶かした温度が低かったりすると、うまく円形の部分まで到達せず、形が欠けてしまうのだ。
「失敗もいいんですよ。こうして、失敗すると、何が原因かな、って考える。」
そして、リトライ。
こういう経験は子どもたちに、いや、大人たちにだって必要だと思う。何度でも失敗し、原因を考え、リトライする。
それは、失敗ではないと私は思う。
それは、経験だ。
出来上がった錫板は、樹の幹を輪切りにした作業台に掘られた窪みに合わせ、木槌で少しづつ叩いていく。
「木槌を動かすのではなく、錫板を少しずつ回して、木槌では、同じ場所を打つように意識してみてください。叩く時は、強い力でなくても大丈夫です。」
物作りが好きな長男は、金槌なども使い慣れていることもあり、その説明の後で「ちょっと練習する?」と練習用の錫板を貸していただくが、数回打って「あ、もう練習しなくて大丈夫だね。」と本番に入る。
コツコツ・・・と木槌で決して強くはない音をさせる。
その間に、二男と末娘も錫板を作り、小槌で自分でコツコツと打っていく。
そのペースも、打ち方も、力加減も、それぞれで、そのやり方をお互いに観察はするけれど、「もっとこうしたら?」などと、口出ししない。
木槌が錫を打つ音が、工房に響く。
出来上がった錫皿は、三者三様。
本当に、それぞれ。
どれもいいね。
最後に、裏に名前を刻印させてもらう。
工房の方が、「何処かで開くワークショップではなくて、工房の空気を感じてほしくて、今回この様な形を考えたんです。子だからこれくらい、みたいな、そういうのじゃなくて、錫板を作るところから体験したりできたらいいなと思って。」とおっしゃっていた。
子どもたちは、アーティストの方の関わり方が、自分たちに対して、フラットであると感じていたのではないか、と私は思う。
子どもたちに対して、「子どもだからこれくらいでいい」ということは、子どもたちの在り方そのものをどう捉えているのだろうかという疑問が浮かんでくる。
その子の成長に合わせることはあっても、それは「子どもだからこれくらいでいい」ではないのだと思うから。
子ども騙し、という言葉があるが、子どもたちは決して騙されたりしないのだ。
もし、「子どもだからこれくらいでいいんだ」という思いでアプローチし、「やっぱりそんなものだよね。」と、感じることがあったなら、子どもたちはやさしさから、騙されたふりをしてくれているのだ、と思った方がいいだろうといつも自分を戒めている。
アーティストの方々の多くは、「子どもだからこれくらいでいい」という接し方をしないように感じる。子どもたちに「自分さたちの生き方」をフラットに伝えてくれていると思う。
それは、言葉とは限らず、作品であったり、佇まいであったりする。
もしかしたら、彼らの中を移動する分子の音が伝わってくるのかもしれない。
私の中でも、様々な分子は移動しながら、聴こえない音を何処かに響かせているのかもしれない。
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