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ガチ恋じゃない推しなんてこの世に存在しない《山田詠美/放課後の音符》

世の中に確かに存在しているのにも関わらず、昼間の大人たちはなかったことにしておきたいこと。人並みのスピードで私はその存在に気づいていたが、より詳細に、具体的に知ろうと試みたのはわりと遅い方かもしれない。単に情報や映像としてではなく、文学として、イメージとして授けられたのだ。山田詠美に。

今回紹介する一冊は、冒頭からこんな調子。たぶん、当時高校生だった私の方がかなり困ってしまった。

寝るだけといったって、眠るわけではないのだから、私は、その様子を想像して、ますます困ってしまうのだ。

山田詠美『放課後の音符(キイノート)』新潮社,p.9

『放課後の音符(キイノート)』は、早くも“一線を越えた”女の子たちと、普通の子である私(主人公)の心の交流を描いた短編集だ。収められた8つの物語は多種多様だが、大人よりも成熟している筋の通った女の子がどの物語にも共通して登場する。

繰り返し開いた本は、いつの間にか帯がなくなっている。この本もそうだ。「女友達の恋愛観が知りたければ、とりあえずこれを貸して、どの話が好き?と尋ねてみて。意外な一面を知れるかもしれないし、結果によっては将来恋のライバルになると予感できるかもしれない」なんてコピーを付けて、自分で帯を作りたくなってしまう。

ダントツで、“Crystal Silence”が好きだ。

「私の口も、その時、きけなかったわ。耳だって聴こえなかったわ。あんなに騒がしい波の音だってよ。でもね、音のないものの音が、聴こえる瞬間て、恋をしているとあるものなのよ」

山田詠美『放課後の音符(キイノート)』新潮社,p.88

あの子、私をずっと見詰めてた。ずっと、ずっと、見詰めてた。瞳が、とっても澄んでたわ。まるで、何かにろ過されたみたいな混じりっ気のない視線が私に張り付いてた。(中略)私も見詰め返したわ。大好きだっていう気持ちを込めて、彼のことを見たの。私、恋のことで、こんなに努力したの、生まれて、初めてだったと思う。相手に、こんなにも自分の心を解らせようとしたの初めてだった

山田詠美『放課後の音符(キイノート)』新潮社,p.94

頭が柔軟で何でも吸収する幼い頃に読んだものが、その人の価値観にダイレクトにつながるのは当然のことだろう。それでもやっぱり、読んだ本の内容なんて忘れてしまうものだ。ページをめくるたびの静かな衝撃と、登場人物たちの甘美で切実な心情が、私の胸に寄せては返す波のようだったことーー正直本書だって、読んだ時の感覚くらいしか覚えていなかった。

そんな状態で今回のnoteの引用部分を探すために開いた瞬間、物語のシーンが映像として還ってきたのは“Crystal Silence”だった。ろうあ者のナイスガイと過ごす、海辺のひと夏。声が聞けなくても、その人の言葉を知れなくても、恋に落ちてしまうことがある。きっとこの物語は、後の私の「沈黙でも愛おしく感じる人を選びたい」という価値観につながった。何となく潮風の匂いがする人を、自然と選ぶようにもなった。初読の当時から今までずっと、私はこの“泣きたくなるほど煌めいた沈黙”の物語が大好きなのだ。


さて、話はやっと本題に。私はこれから推しへのガチ恋について語るのだが、なぜ10代のみずみずしい恋慕が綴られた本書が、このnoteで引用されているのか。それは、ガチ恋というものを考えた時に自然と、次の文章が思い出されたからだ。

精神的なものだけだったら、あんたたちのやってる友情ごっこで充分じゃない。私に言わせれば、あの男の子がいいとか憧れたり、皆で騒いだりするのって、すごくいやらしいわよ。どうして、それが男でなければいけないのか、そこんとこ考えて見ればいいと思う。

山田詠美『放課後の音符(キイノート)』新潮社,p.135

推しが恋愛(性的)対象の性別である人と、恋愛(性的)対象の性別ではない人の違いを考えた時に、前者は「崇拝混じりのガチ恋」で後者は「恋がほんの少し含まれた憧れ混じりの崇拝」だと思った。そして私にとっての前者は紛れもなく元推しだったし、後者は浅田真央だ。

推し活とは「推しを応援して自分も活力を得ること」。推しが頑張っているから私も頑張ろうと思うための活動だと思っている。

推しから活力を得るーーシンプルにそのままの意味を経験できた対象は、浅田真央だった。彼女は今までも今もこれからも、永遠の推しだ。彼女のスケートを見るたびに、私も大きな夢のある人生を歩んで良いのだと、自分を肯定することができた。部活や勉強を頑張りたい時に、頭の中にはいつも“真央ちゃんみたいな努力”が浮かんでいた。彼女の喜びは私の喜びで、彼女の悲しみは私の悲しみだった。

真央ちゃんがリンクに咲いたどの冬も忘れられないけれど、やっぱり一番はソチ五輪だ。不器用だけど一生懸命な人間は、そうじゃない人間が登れる場所には登れないかもしれないけれど、不器用で一生懸命だからこそ見る人の心を掴み、誰も辿り着けない場所に行けるのだ、と学ばせてくれた。この学びが今まで一体どれほどの障害を乗り越えさせてくれたかは、計り知れない。


世の中には、自分の恋愛対象の性別ではない(私の場合は女性)素敵な人物はたくさんいる。にも関わらず、推しから活力を得て仕事や勉強を頑張ろう、もっと成長しよう、と思うためにどうしてわざわざ異性(私の目線で書いているので、便宜上“異性”と言っている。読者に合わせて読み替えていただけたらありがたい)を推すのか。それはやはり、推すという感情には多かれ少なかれ恋の成分があるからだろう。

そもそもの恋の本来の意味は、「特定の人に強くひかれること」である。性的なのかプラトニックなのかに関わらず、とにかく相手に心をぐっと掴まれて離れられない状態。また、辞書にはその状態が長期に渡るのか短いものなのかについても触れられていない。極端な話、半年続く片想いと一瞬で消えるときめきも同じ恋なのだ。

他とは違う魅力をはっきりと感じ、そこに強く惹かれるから推しは推しなのだ。だから推しへの気持ちは恋と変わらない部分がある。推しがいる全員、恋をしていると言っても過言ではないと私は思う。

具体的に示そう。ドルオタだったらダンスに色気を感じるし、失敗したら守ってあげたくなるし、声聞いて安心して眠ることだってある。片っ端から動画を見たい、過去を知りたい、彼の好きな食べ物を食べたい、彼が映るもの全てを集めて眺めたい。アイドルを推している人ならこの中の1つくらいには、必ず当てはまると思う。

これら全て、リアルの世界に好きな人ができた時の欲求に言い換えることができる。体育の時間はずっと見てたいし、彼に落ち度があってもかばいたくなるし、電話が子守唄になることだってある。小さい頃の写真を見てみたいし(見せてもらえなくてもどかしい思いをした人、私以外にいる?)、男友達とのバカ話から「どうしてこんなアングラ音楽聴くようになったの?」ってことまで色んな話を聞きたいし、休日は彼の好物を作りたい、フォルダはできるだけ彼でいっぱいにしたい。もちろん恋にのめり込む濃度は人それぞれだけれど、全力で人を好きになったことがある人は上記の1つくらいは心当たりあるのでは。

ほら、変わりないよね。推すという感情と、恋。身も心も対象を求めてしまうのだと言ってしまえば、推すことと恋することのどちらもが、性的な希求なのだと思う。沼に落ちてしまう罪悪感は、「推しだから」と理由づければ避けられない。顔の見えない大人たちの商業ビジネスに乗せられている気がして。でも「恋してるから」と思えば、多少貢いでしまったってしょうがないなと思えるかもしれない。だって、恋ってどうしようもないものでしょう?という訳でみんな、もっと積極的にガチ恋という言葉を使っていこう!(←恐ろしい推奨文である)


ではここで前述に戻りたい。私は恋愛対象の性別ではない推しについて「恋がほんの少し含まれた憧れ混じりの崇拝」と書いた。説明すると、私にとっての浅田真央に、恋がゼロだった訳ではないのだ。『愛の夢』で彼女の指先が描く幻の曲線は、間違いなくいつもうっとりと美しかった。『白鳥の湖』では本当に、飛ぶことを忘れてただひたむきに舞う白鳥を見た。その時の気持ちは恋と何ら変わらなかったが、あくまで最重要は「私も真央ちゃんみたいに人生を生き切りたい」という憧れであり、神仏のように手を合わせ対象を信じて祈る「崇拝」だった。憧れや崇拝を差し置いて、恋が前面に出ることは一度もなかった。

つまり、推しが恋愛対象の性別である場合はどう考えてもガチ恋だし、そうじゃない場合は推しの生み出す一瞬にガチ恋するものだ、と言いたい。タイトル通り“ガチ恋じゃない推しなんてこの世に存在しない”のだ。そしてやっぱり、推しが恋愛対象の性別であるなら、その推し活はどうあがいても苦しくなりがちだ。それが嫌なら箱推しを選択するのが、一番賢いやり方だと思う(推し活の苦しみに関しては下のnoteに書いている)。

苦しくならないために、じゃあどうすれば良いのか。私は2つの方法があると考えている。

一つは「推しから得た活力を、自分が納得できる形で社会に還元する」ことだ。でもこれだけでは、失敗した時にまた推しに頼ってしまって、貢いで、さらにハマって…となりかねない。こんな残念な姿を晒さないために、もう一つの方法を推奨したい。

それは「推しが侵入する余地のない、自分だけの秘密を持つこと」だ。推しとは繋がらない、かけ離れたところにある何か。音楽でも映画でも公園でも何だって良い(あくまで秘密なので私の例をここに書けないのがもどかしいが)。ちょっとした雑貨だって良いのだ。アンクレット、口紅、香水。これらは『放課後の音符』の中で、女の子自身のためだけの宝物として登場する。そういう小道具でも良いから、推しを介在せず、見ただけですぐに幸せになれる物があれば、良い意味で推しと自分を切り離す時間が生まれる。これができると推しが恋愛対象の性別であれどうであれ、お互い良い距離感を保ちながら、ただ楽しく推し活ができるんじゃないかと思う。


山田詠美は、偶像崇拝から一旦距離を取るのに適している。私は彼女が話しているところを、ピース又吉が芥川賞を受賞した時の会見でしか見たことがない。でも本書『放課後の音符』のあとがきを読めば、なんだかとても身近に感じた。まるで外国帰りの親戚のおばさんみたいだなと思った。

良い大人とは、言うまでもなく人生のいつくしみ方を知っている人たちです。悪い大人は、時間、お金、感情、すべてにおいて、けちな人々のことです。(中略)死にたいくらいの悲しい出来事も、後になってみれば、素晴らしき無駄使いの思い出として、心の内に常備されるのです。

山田詠美『放課後の音符(キイノート)』新潮社,p.186

「死にたいくらいの悲しい出来事」は運が良かったんだな、と近頃はすごく思えているのだが、なぜそう思うのかは言語化できていなかった。そんな私の心情をエイミー(山田詠美の愛称)は代弁してくれた。そうか、私は危うく悪い大人になっていたのかもしれない。一見不真面目に見えるけれど、実は良い大人たちーー遅刻もするし、馬券も買うけど、「楽しいね!」って感情を表現することを厭わない大人たちの世界を知らないまま、結婚して子供を産んで、年を重ねたのかもしれない。もしも順調に進んでいたのなら、そんな十人十色の世界から愛されてやまない人物(素敵な声と笑顔の持ち主)には絶対に巡り会えなかっただろう。

エイミーの文学は、人生に不可欠ではない。出会わなくても生きていけるけど、出会えば確実に、あなたの心を一層厚くして深い人物に仕上げてくれる文学だ。コーヒーとかワインとか、とっておきの嗜好品とともにどうぞ、召し上がれ。

《写真提供 : きよまる》

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