”秀夫”「亀嵩」に帰る~春田和秀さん50年ぶりロケ地再訪~
映画『砂の器』(1974年)の後半、観る者の心を激しく揺さぶるのが、ハンセン病を患った父の千代吉が幼い息子の秀夫とともに放浪の旅をする一連の回想シーンです。巡礼の姿で日本各地をさまよった父子は島根県の亀嵩にたどり着き、やがて駅のホームで涙の別れを迎えます。
秀夫を演じたのは、当時8歳の春田和秀さんでした。映画の中で秀夫は一言もしゃべりませんが、春田さんの無言の演技は日本中の観客を泣かせ、大評判になりました。
その名子役・春田さんが、映画の撮影以後は一度も足を向けることがなかった亀嵩など木次線沿線(奥出雲・雲南地域)のロケ地を、実に50年ぶりに訪れました。かつての撮影現場は半世紀を経た今、春田さんの目にどのように映ったのでしょうか?
※トップ画像=砂の器記念碑(島根県奥出雲町亀嵩)を訪れた春田和秀さん
封印していた子役時代
10月18日(金)の昼、奥出雲町にあるJR木次線の亀嵩駅で春田さんと待ち合わせました。10月後半とは思えないくらい暑い日で、東京から飛行機と車を乗り継いできた春田さんは黒いTシャツ姿でした。
今回、春田さんが亀嵩を訪れたのは、50年前の映画の公開日と同じ10月19日(土)に当地で開催された記念イベント「砂の器記念祭」に招かれ、トークショーに登壇することになったからです。せっかくの機会なので、イベント前日に木次線沿線にある映画のロケ地を一緒に回っていただくことにしました。
奥出雲に到着したばかりの今の心境を尋ねると「楽しみでもあり、一方で50年も来なかったので、地元の方々に申し訳ないような、怖いような気持ちもあります」とのことでした。
1歳か2歳、つまり物心がつく前から既に子役の仕事をしていたという春田さん。映画をはじめテレビドラマやコマーシャルにも数多く出演する売れっ子でしたが、思うところがあって10代の半ばに芸能界を離れました。それからは子役時代のことは誰にも一切話さず、長らく封印していたといいます。10年近く前に映画評論家で映画監督でもある樋口尚文さんの取材を受けたことをきっかけに、ようやく当時のことを語れるようになったそうです。
「なんかいるんですね、あの辺に…自分が」
最初に向かったのは、亀嵩駅から車で5分ほどの場所にある湯野神社です。三木巡査が千代吉と秀夫の父子に出会うシーンの撮影が行われました。
正面の鳥居をくぐってすぐの長い石段では、緒形拳さん演じる三木巡査が秀夫を見つける場面が撮影されました。村の子どもたちが石段の上から飛び出してくると、その後から秀夫が一瞬姿を現し、下にいた三木巡査が秀夫を捕まえようと石段を駆け上がります。春田さんは、戦前の警官の白い制服の衣装を着た緒形さんがとても恰好よかったことを憶えているといいます。
鳥居の前に立ってじっと石段を見上げていた春田さんが、しみじみとつぶやきました。
「なんかいるんですね、あの辺にきっとね…自分がね」
子どもだった当時の自分が、ひょっこり現れる気配を感じるというのです。
続いて石段の上に移動した春田さん、撮影の時にスタンバイしていた場所から鳥居の方を見下ろします。体をかがめて子どもの目線になると、周囲の木々がすごく高かったことや、境内は奥行きがあり社殿までが非常に遠かったことなど当時の印象がよみがえり「そうそう」と何度も頷いていました。
「台本いただいていないんですよ」
湯野神社では他にも、境内を逃げる秀夫を三木が走って追いかけるカットや拝殿の床下にいる父子を三木が見つける場面などが撮影されました。8歳だった春田さんは、物語の内容をどの程度わかった上で演じていたのでしょうか?尋ねると、驚きの答えが返ってきました。
「台本いただいてないんですよ、僕…(通しの物語は)わかっていなくて…(現場で)『いわれたようにやって、頑張って』って…『ああ、頑張ろう』って、小っちゃいながらに」
秀夫の役にはセリフがなく、春田さんは撮影現場に入ってから「こう動いて」「こういうイメージで」とその都度スタッフから指示を受け、演技をしていたといいます。春田さんによれば『砂の器』の撮影はOKが出るまで何度もやり直すのが当たり前でした。
「すごい人たちじゃないですか、皆さん、今考えると。けっこう皆さんディスカッションしてるの、多かったんですよ。ケンカとかではなくて、現場会議ですよね。まわりの方も(意見が)ころころ変わるって時もあるので、急に流れが変わったりとか。すごく賑やかだったですね。いろんな話をしてましたよね。撮り直しも多かったし」
がむしゃらに走った風景
続いて訪ねたのは、出雲八代駅。映画の中では「亀嵩駅」のホームとして登場します。加藤嘉さんが演じる千代吉が、息子の秀夫と別れて岡山の療養所へ行くことになり、三木たちと一緒にホームで列車を待っていると、線路の向うから秀夫が父を追って走ってきます。ホームに駆け上がり、千代吉の胸に飛び込む秀夫。泣きながら抱き合う父子の情愛が観客の涙を誘う、伝説の名シーンです。
現在は線路内に立ち入っての撮影は許されませんが、当時は実際に線路を使って撮影が行われました。春田さんは敷き詰められたバラスト(砕石)の上を撮影で何回も走ったことを鮮明に憶えています。
「足が痛かったのが記憶にあって…あの時は草履だったかな…テストの時は靴でやってるんですよ。で『痛い痛い』って言って、怒られて…走ったかな」
荷馬車で運ばれる千代吉を追いかけて、秀夫が田んぼの畦道や川沿いなど「亀嵩」の風景の中を走り抜けるシーンは、雲南市(当時・大東町)の下久野地区のいくつかの場所で撮影されました。
これも今では許されませんが、鉄橋の上を走るカットもあります。もちろん撮影時には安全に配慮し、列車の通過時刻を事前に確認した上で、見通しのよい場所に列車の接近を知らせるスタッフを配置して慎重に行われました。
春田さんの記憶では、鉄橋ではレールの間に板が敷かれていました。走りやすいようにスタッフが板を用意したものと春田さんは考えていたのですが、今回地元の方にお話を伺ったところ、道路事情が良くなかった当時は地元の人たちが鉄橋を歩いて対岸へ渡ることもあったようで、ふだんから板が敷かれていたとのことでした。
ロケを通して「いわれるまま、がむしゃらに…いっぱい走った記憶があります」と話す春田さん。転ぶことも一度ならずあったとか。それでも撮影がつらいと思ったことはなかったそうです。
「(スタッフは)皆さんが大人の方じゃないですか。褒めてもらえると子どもは嬉しいじゃないですか。褒めたたえられているような感じで。うまくコントロールされてたのかなって思ったりもしますけど(笑)」
地元の思いにふれる
下久野では「亀嵩駐在所」のセットが作られた農家、藤原明博さんのお宅も訪ねました。藤原さんは『砂の器』のロケの時の写真や俳優、スタッフのサインなどをまとめた1冊のアルバムを大切に保管しています。当時ロケ隊を受け入れ、エキストラ出演もした父の故・義範さんが遺したものです。
ロケの休憩時間に藤原家の庭で撮影された春田さんのスナップ写真も何枚かありました。「自分もこういう写真は持っていない」と春田さんは驚いていました。義範さんは生前、ずっと春田さんのことを気にかけていて、新聞記者などが取材にくると「あの子は今どうしているのか?」と尋ねていたといいます。
下久野には、映画に登場する石灯籠もあります。放浪の末「亀嵩」にやってきた本浦父子がその下で休む特徴的な形の石灯籠は、その後道路拡張のために近くに移設され、今は撮影当時とは違う場所にあります。
石灯籠の周囲はきれいに整えられていました。春田さんが来ると聞いて、近くに住む落合傅吉さんが朝から草刈りをして待っていて下さったのです。さりげない気遣いに、春田さんは恐縮していました。落合さんの家には、下久野でロケが行われた時、春田さんにもらったサインも飾られています。
地元の人たちが50年前のロケの記憶をずっと大切にしてきたことを実感し、『砂の器』という作品の重みを改めてかみしめる春田さん。心温まるロケ地再訪の旅でした。
※『砂の器』ロケの時の春田さんについて、地元の人たちが記憶を語って下さいました。記事はこちら