小躍りしながら「オバケ?展」に行って不覚にも泣いてしまった話
『やさしいおばけになりたいから、おばけにあったら優しくしたい』
その一文を読んだときに、全身に鳥肌が走って、涙が滲んだ。
自分の中の「オバケ」と、蔑まれてきた世界中のおばけが、急にやさしくて可愛くて仕方のない存在に思えたのだ。
鼻の奥がつんとして、思わず白い床を見つめた。
* * *
《本文》
蝉が鳴き始める前。
ひんやりとした空気の中に、
春の香りを感じ始めた頃、
「オバケ?展」なるものが開催されると知り、
そわそわしながら、
カウントダウンしていたわたし。
招待券の抽選にまで応募し、なんと当たってしまった
小躍りしながらポストに届いた茶色い封筒をあけると、せなけいこさんの「ねないこだれだ」のイラストや、バーバパパのイラストがポップに施されたチケットが、2枚入っていた。
(妹はそれより何より、バーバパパってオバケなの!?と衝撃を受けていたけれど)
チケットを握りしめ、太陽光が当たるデッキで撮影会をする。
嬉しさがじんわり込み上げた。
* * *
平日を狙って会場を訪れると、こじんまりとした空間に、おしゃれで、洗練されたおばけのもろもろが展示されていた。
おばけの歴史、世界のお墓、おばけ落語におばけ湯…♨️
こどものころの豊かな世界をもう一度体験しているような、美しい言葉と効果音にワクワク。
でも多分、20年前の私だったら、こんなにかわいくて面白い展覧でも、大泣きして拒否しただろう
まずこの暗く演出された空間がアウトだろうし、
光を遮断する黒い幕を開けることで、どこかに吸い込まれるんじゃないかと感じるだろう。
極度の怖がりだった私は、初めての映画館(因みに千と千尋の神隠しをみにいった)で、大号泣した。
どのくらいダメだったかというと、
黒猫を満月の夜に見ただけでわんわん泣くという具合。
小学校中学年まではオレンジの電球をつけて夜を過ごし、
寝ている間に何回か様子を見に来るよう、両親に念入りにつたえていたのを思い出す。
井戸や割れた鏡が展示されているコーナーを進んでいるとき、ふと、そんな幼少期の自分と両親の姿が、そこに想起された。
* * *
母、もしくは父が私を抱いて、「こわくないよ」と何度も促すも、たっぷりとした暗闇に異質な雰囲気を感じている私は、とにかく大泣きしてなんとか自分の身を危険から守ろうとしている。
あまりにもしつこく強く泣くものだから、
両親はそのうち「ダメだねぇ」などと言いながら、
父はその一方でケロッとしている妹を連れて中を回り、私と母は入口で待っている。
そんな光景が一瞬で想像できた。
* * *
「こわいよぉおおおおお」
会場内で、泣き叫ぶ子どもの声が聞こえてくる。
“子どもの方が余計な固定観念やメディアの刷り込みも少ないから、おばけに対する恐怖心は薄いんじゃないかしら”
ふと、そんなふうに思うけれど、
自分が言えた立場ではないので飲み込む。
たぶん、子どもだからこそ、空気の変化に敏感だし、今までの人生…過去世で積み重ねてきた「恐怖心」が思い出されやすいのだろう、と思ったりする。
* * *
そんなことを考えていると、
とあるスペースが目についた。
そこには、「おばけ研究員」のみなさんのエッセイや考察などが、ホワイトボードに貼られているスペースがあった。
透明人間の雰囲気が醸し出しされている展示にちょっと興味を惹かれつつも、
足はまっさきにそちらへ向かう。
* * *
そしてここで私は、この展覧会で1番のハイライトとも言える衝撃を食らった。
全身の鳥肌が立っていたのは、
会場が寒かったからでは無い。
わたしのなかに春の嵐が起こったからだ。
その衝撃は、くどうれいんさんが書かれた
『おばけと桜』というエッセイの中にある。
詳しい内容は省くけれど、
(図録1800円に全部載ってます)
人間の死後、誕生前の世界もまるっとふくめた、
本質的な人類の普遍性について探究してきた私にとって、
「おばけ」への周囲のリアクションに対する、彼女の鋭い世界の捉え方と、深い優しさは、衝撃的だった。
おばけは生きていた人だし、
私たちだっておばけになる。
そんな視点だ。
シンプルだけれど、手に取るように辿れる感情の変化や情景で、世界が細胞にまでじんわり伝わった。
優しくて包むような、でもちょっとピリッとした、そんな衝撃だった。
読んでいく度に共鳴が広がっていく。
そうだ、そうなんだよ。
おばけは怖い存在じゃない。
わたしたちだって、おばけじゃないか。
私たちはみんな霊魂であるのだから。
ちっちゃな素粒子から成っている、
柔らかくて儚くて、力強い不思議な存在であるのだ。
おばけと私たちの違いは、
肉体を持っているかいないかだけの違いだ。
自分の中のおばけに優しくなれるとき、
ひとは「おばけ」に対して優しくなれる
つまり、世界をもっと明るく見渡せるのだ。
* * *
ここで少し、私の言う「自分の中のおばけ」とは何を指すのか、説明したいと思う。
「オバケ」とは「シャドウ」のことだ。
アートセラピーではそのように解釈する。
シャドウは、自分のネガティビティや、
抑圧・否定している受け入れ難い内面のこと。
例えば、普段聞き役が多くて世話焼きなAさんが、甘えん坊で人にすがっちゃうBさんを見ると、イライラするとする。
これは、Aさんの中の抑圧された内面=シャドウに、甘えん坊な内面があるからだといえる。
Aさんは他の人に対してそれを投影し、
不快感を感じたり、もしくは必要以上にかばったりする。
抑えている本当の自分自身は、
他人の中ではなく、他人に対する自分の反応からも、みることができるのだ。
「オバケ=シャドウ」をスルーしたり、いじめたりすると、ちょっと生きづらくなる。
Aさんが少し立ち止まって、そんな自分の
「オバケ」と対話をしてみたら…
それだけでも気づくことが沢山あるかもしれない。
* * *
そんなことを踏まえた上で、
おばけに会ったとき、
果たして人はどう対応するだろうかと考えてみる
絵本のように友達になるかもしれないし、
研究対象とするかもしれない。
泣き叫ぶかも。
その反応は、「オバケ=シャドウ」への扱いと同じなんじゃないか、と私は思う。
死んでいても、生きていても、
私たちは同じである。
「未知なるもの」「わからないもの」を乱暴に扱ったり、表面的な付き合いを繰り返すと、その恐怖心は増すだけ。
『やさしいおばけになりたい』
れいんさんの一言が何度も反芻して、全身をとおるたびに、鼻の奥がつんとした。
そうだよね、そうなんだよね…
引き剥がしては諦められ、
叫んでは否定され、
泣き喚いては絶望されてきた「オバケ」たちも、
きっとどうしたらいいのか分からなかったに違いない。
認められなかったあの人のこと、
認めたかったあの日の自分のこと。
泣きたかったあの頃の私のこと、
泣かせてしまったあの人のこと。
忘れたくて苦しんでうずうずして
無理やり引っ張ってきたものたちが、
私たちにはたくさんある。
『もしおばけに会うことがあったら、「おばけだから」という理由だけでこわがることはしたくないなあ、と思う。』
私も、そう思う
ほんとうに。
* * *
遠くで、誰かの泣く声がする
色のない世界に飲まれる恐ろしさから、
細胞が逃げろと叫んでいる
おばけが怖いんじゃない。
死ぬのがこわいんじゃない
ただ、分からないのが怖かっただけ。
世界には闇しかないと感じることが、恐ろしかっただけ。
踏み切りの音が鳴り響いて、
ふと我にかえる。
あのとき泣いていた私は、
すでにこの世界で色んなことを経験してきた。
手のひらの感触を思わず確かめる。
今はもう、同じことでは泣かないと思う
闇は否定しなければならないものではないと
理解しているから。
でもきっと、叩いたり叫んだり怒ったりして
「オバケ」を退治したくなる日もあるだろう
その度に、私は思い出すだろう
自分がおばけだったときのことを。
自分の中の「オバケ」を。
そして、
もう地上にはいない、愛するおばけたちを。
そんなことを考えていたら、揺るがない愛がドッと押し寄せてきて、世界が一気に柔らかくなった。
怖がっていたのは、私の方。
ねじ伏せないで、愛そう
おばけと大切に会話しよう
そうして世界を彩ろう
* * *
立川駅へ歩いているとき、
初秋の空気がやわらかく体を包んだ
派手で奇妙なオブジェの色も、
今の私には信号機みたいだ。
わたしのなかで、いろんなおばけがたくさん笑っている
* * *
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